■子猫のワルツ #15 土浦

 冬休みが明けた高校というのは、おそらくどこも同じく殺気立っていることだろう。
 それはもちろん、3年生が受験真っ盛りになるから。
 試験会場に出向いている者、自宅に籠もって勉強している者、学校で補習を受ける者── 自分以外のすべてが敵となるこの時期、人数的にはまばらなはずの3年の教室周辺に近づくと粘りつくような濃い殺気で妙に背筋が寒くなるものだ。
 そして日が経つにつれ、その頭上に桜の花を開かせた者たちが喜びの報告をすべく登校し始める。
 そうなると教室の中はさながら熱で溶けたホワイトチョコとブラックチョコをひと混ぜしたようなマーブル模様の空気を帯び始めるのである。
 最終的に、輝ける未来へ向けて希望に胸を膨らませる者たちと、さらに続く受験地獄への絶望に打ちひしがれる者たちとにくっきりと別れ、巣立ちの日を迎えるのだ。

 2月に入った頃から、あるふたりの姿が校内で全く見られなくなり、衛藤はもどかしい日々を送っていた。
 ひとりは一生このまま姿を消してくれ、と願うほどの相手なのでどうでもいいのだが、もうひとりには会いたかった。1分でも、1秒でもいいから。
 ちょくちょく様子を見に彼女の教室を覗いてみるのだが、やはり姿はない。
 ふたり一緒に、というのが気に入らなかった。
 ふたりとも推薦での内部進学が決まっている、と理事長を務めるいとこから聞き出したのは数日前。
 合格が決まって遊び歩いているとは、彼女に限って考えられない。
 1年間しか専門分野の勉強をしてこなかった彼女は、足りない知識を補うために自宅で勉強に励んでいるのだろうか。
 それとも、技術を磨くためにレッスン漬けの毎日を送っているのだろうか。
 はふぅ、と深い溜息を吐き、ふかふかのソファにボスンと音を立てて背中を沈ませた。
「── 桐也」
「んあ?」
「私に用事がないのなら、家に帰ったらどうだ?」
 どっしりとした風格のある机で執務中のいとこがちらりと鋭い視線を送ってくる。
 もともと目つきの鋭い男なので、ただ見ただけなのかもしれないが。
「ある! 用事ならあるって」
 ここは理事長室。
 入学してから卒業するまで一歩も足を踏み入れることがない生徒が大部分であるこの場所に、衛藤は入り浸っているのである。
 もちろん血縁関係があるから気安いというのもあるが、衛藤にはそれとは別に目的があった。
 彼女の進路について情報をもたらしてくれたいとこが、今の彼女についても何か知っているのではないか。
 それをわずかでも漏らしてくれるのでいか。そんな淡い期待を抱いていた。
「── ならばさっさと済ませて帰れ。側でそう度々溜息を吐かれては、気が散って仕方ない」
「う……」
 そんなに溜息を吐いていたのか、と自己嫌悪に陥りつつ。
「あ、あのさ、暁彦さん……」
「なんだ」
 手元の書類に万年筆を滑らせ続けていた吉羅は、書類から顔を上げることもなく受け答えする。
 切り出してはみたものの、その先を続ける勇気が出ない。
 サラサラとペン先が紙の上を滑る微かな音。
 こうなったら直球でいくしかない── 決意とともに唾を飲み込んだ喉が、こくりとやけに大きく鳴った。
「あ……あいつって、今何してるか、聞いてる…?」
「『あいつ』…? ……ああ、日野君のことか」
「そ、そうそうっ! 最近学校にも来てないみたいだしさ、進学が決まってるんだったら学校来ないのってマズイんじゃないの?」
 ふ、と口元を緩ませて吉羅はペンを置く。
「今は出て来いと言っても無理だろうな」
「な、なんでっ !? もしかして病気 !?」
「それはない。彼女なら今───」
 いとこの口から語られた衝撃の事実に、衛藤は今度こそ立ち上がれないほどに深くソファに沈み込んだ。

 新たな環境へ飛び込んだ者たちが日々の生活にそろそろ慣れ始め、大型連休もとうに過ぎ、まもなく梅雨の長雨の季節に入ろうとする頃。
 纏わりついて来る湿気に吹き出す汗を拭いながら、衛藤は正門前を歩いていた。
 と、誇らしげに天を指す妖精像の下に制服私服が入り乱れた小さな人だかり。
 知った顔が見えて校舎に引き返そうかとも思ったが、極力無関心を装って横を通り過ぎる。
「── や、衛藤くんじゃないのさ。今帰り?」
 やはり引き返したほうがよかったのかもしれない。
 後悔先に立たず、とはまさにこのこと。
 声をかけてきたOGに、どうも、とそっけなく答える。
「……なんか用?」
「こないだの写真ができたから、冬海ちゃんたちに届けに来たんだよ。あんたも見る?」
 突き出された紙の束を、思わず受け取ってしまった。
 そこには、たくさんの人に囲まれて笑っている、愛しい人の姿があった。
 吸い込まれるように、写真を1枚めくってみた。
 肺を押し潰されたような息苦しさが襲ってくる。
 目を逸らしながら、少しでも遠くへ遠ざけたくて写真の束を突き返した。
「── 見送りくらい来てやればよかったのに。香穂もあんたのこと、気にしてたよ?」
「………っ」
 写真を受け取ったOG・天羽がわざとらしい溜息を吐いた。
「あんたさ、見てるだけじゃ何にも手に入らないってわかってる?」
「そんなこと、あんたに言われなくても──」
 わかってるさ、痛いほどに。
「男なら『奪いに行ってやる!』くらいの気概を見せなさいよ」
 ふん、とあしらいながら顎を上げ、背筋を伸ばして正門へ向かう。
 近いうちにデカい国際コンクール優勝を引っさげて乗り込んでやる。真っ向勝負だ。
 無性にヴァイオリンが弾きたくて、駅へ向かう衛藤の足は自然と早くなった。

*  *  *  *  *

 門の向こうに少年の姿が消えて、天羽は再び深い息を吐いた。
「あの……天羽先輩、よかったんですか? あんなことおっしゃって…」
 隣にいた冬海が、心配そうに訊ねてくる。
「あーいいのいいの。男の子はああやって高い壁に立ち向かい、乗り越えてこそ成長していくってもんよ」
 ぱたぱたと手を振りながら、あはは、と笑い飛ばす。
 いえ、そうじゃなくて、と冬海は言葉を濁して手元の写真を見つめた。
 彼女が見ているのは、ついさっき少年が見てすぐに目を逸らした写真と同じもの。
 振り返りながら高く手を挙げ笑っている一組の男女が写っている。身体の大きさは違えど、線対称のように同じポーズだ。
 空港で撮られたもので、彼らの奥には国際線搭乗ゲートへ向かうエスカレーターが写りこんでいた。
「例えば彼が追いかけていったとして、あのふたりの仲がどうこうなるって思う?」
「いえ、思いません」
 自己主張の苦手な後輩が、きっぱりと即答する。
 でしょ?、と天羽はニヤリ。
「あの朴念仁、香穂の気持ちの上にあぐらかいてるようなところがあるからね、少しは危機感持たせてやらなきゃ。そしたら嫌でも香穂のこと大事にするでしょ」
 ── ウィーンであの子のことを守ってやれるのは、あいつしかいないんだから。
 呟いて天羽は空を見上げる。
 本格的に音楽の勉強をすべく遠い異国の地に旅立った親友に思いを馳せながら──

〜おしまい〜

【プチあとがき】
 よっしゃ、これでうぃーんシリーズに衛藤くんが出せるぞっ!
 結局最後まで玉砕だった衛藤くんですが(笑)
 まあ、おそらく奮起してヴァイオリニストへの道まっしぐらなんでしょう(笑)
 なぜかラストは天羽ちゃんが持ってってしまいました。
 芸のないまとめ方ですんません(汗)
 というわけで、この短編集は終了とさせていただきます。
 長らくのおつきあい、ありがとうございました。

【2009/09/06 up】