■子猫のワルツ #12 土浦

 夏休みも終わり、新学期が始まり活気の戻った星奏学院。
 始業式とホームルームだけの半日を終え、衛藤は秋の気配の欠片すらない暑さのせいで肌に張り付くシャツの胸元を摘んでバサバサと風を送り込みながら、 理事長室へと続く廊下を歩いていた。学院の理事長を務める従兄から、用があるので帰りに寄るように、とゆうべ電話があったからだ。
 と、目指す部屋には誰か先客があったらしく、ガチャリとドアが開いた。
「── それじゃ、失礼します」
 弾むように明るい声。
 この声は──!
 衛藤が思った通り、理事長室から出てきたのは日野香穂子。
 部屋の中に向かって一礼した彼女は、静かに扉を閉めると、
「あ、桐也くん! 久しぶり〜♪」
 廊下に佇む衛藤に気づいて、ひらひらと手を振り、にっこりと微笑んだのである。
「……よお」
「あ、そうだ! ねえねえ、私ね──」
 1ヶ月以上会うことのなかった彼女が駆け寄ってくる。
 少し髪が伸びたな、とか。
 ちょっと焼けてるから海にでも行ったのかな、とか。
 間違い探しのように夏休み前との変化を探してみたり。
 けれど彼女の笑顔は前と全然変わっていなかった。
 小走りの彼女との距離はどんどん縮まって。
 そのまま抱きつかれたりしたらどうしよう、なんていらぬ心配をしてみたり。
 実際彼女は衛藤の前まで来ると、ぴょん、と両足で着地するようにしてぴたりと止まったのである。
 ちょうどその時。
「あ、いた! もう、どこ行ってたのよ、探したんだからね!」
 キンと耳をつんざくような大声を張り上げ廊下の奥から走ってくるのは香穂子の親友でもある報道部員。
「ごめんごめん、一応吉羅さんに報告しとこうと思ったものだから」
「なーるほど……それはそうと! このあたしにまでヒミツにしてるなんて水臭いよ!」
「あ、あはは…秘密にしようと思ったわけじゃないんだけど……」
「ま、そこんとこの事情も含めて、今日はとことんインタビューに答えてもらうからね!」
「わかってますって。駅前の喫茶店のケーキセット食べながらってのはどう?」
「いいね、乗った! んじゃ早速行こ!」
「きゃっ、ま、待って待ってっ!」
 天羽は香穂子の腕に自分の腕を絡めると、さっさと引きずって行ってしまった。
 側にいた衛藤は目に入っていなかったのか、終始無視状態だった。
「な………」
 呆然とふたりの背中を見送る衛藤の背後で、ガチャリと扉の開く音がした。
「騒がしいと思ったら……来ていたのか、桐也」
 振り返ると、さっき香穂子が出てきた扉から従兄の顔が見えていた。

「なあ暁彦さん……あいつ…何の報告に来たわけ?」
 理事長室に招きいれられた衛藤は、来客用のソファにどさりと腰を下ろしてから従兄・吉羅に訊いた。
「『あいつ』…? ……ああ、日野君か。休み中にコンクールに出場したそうだ」
「コンクール !? 結果は !?」
 肉に食らいつく猛獣のような勢いで身を乗り出す衛藤に、吉羅の普段無表情な顔に苦笑が浮かぶ。
「2位入賞、だそうだ。コンクールの関係者に知り合いがいて、結果は既に知っていたが……優勝者とは僅差だったらしい」
「へぇ……」
 浮かせた背中をボスッとソファに沈ませる。
 そういえば夏休み中に図書館で遭遇した彼が『山篭り』とか言っていた。
 コンクール出場のための集中特訓だったのだろう。
 優勝に限りなく近い2位── 彼女はさっき、そのことを教えてくれようとしたに違いない。
 あの報道部員が現れなければ、彼女に祝福の言葉を言ってやれたのに。
 と、目の前のローテーブルにバサリと数枚の紙の束が投げ置かれた。
 手に取って見ると、それは過去に有名な音楽家を輩出している国内では有名なコンクールの一般来場者に配られるパンフレットだった。
 パラパラとめくっていく。
 1次予選からファイナルまで、確かに彼女の名前があった。
 演奏曲は彼女らしいものから少し冒険したと思うものまで多岐に渡っている。
 ファイナルの協奏曲は以前OGだという指揮者の卵が練習のためと彼女にソロを依頼した曲だった。
 知っていれば聴きに行ったのに── 悔しさがこみ上げる。
 きっと『彼』はすべてのステージを見届けたのだろうと思えば余計に悔しかった。
「── 悔しそうだな」
「えっ」
 ドキリとして従兄の顔を仰ぎ見た。
 どっしりと立派な机の上に広げた書類に目を落としながら、彼の口元にはなぜか楽しそうな笑みがうっすらと浮かんでいる。
「自分の技術を過信しすぎないことだ」
 ── なんだ、そっちか。
 胸を撫で下ろしながらも、いまだ不敵な笑みを浮かべる従兄はすべてを見透かしているようで、
「そ、それより暁彦さん、用事って何だよっ」
 やけに感じる居心地の悪さを吹き払うように、衛藤は声を荒げるのだった。

〜おしまい〜

【プチあとがき】
 きっとリリも大喜びしていることでしょう。
 ありえねえ、とか言わないでね♪
 珍しく吉羅りじちょに登場していただきました。
 何の用だったんでしょ?

【2009/08/09 up】