■子猫のワルツ #11
夏休みのある日、衛藤はふらりと図書館に来ていた。
星奏学院にもほど近いこの図書館は、土地柄もあってか音楽関連の書籍が豊富だと耳にしていたからだ。
書架の間の通路にも、読書スペースのテーブルにも結構な人数がいるというのに、足音を立てることすら憚られるような静けさは、図書館という場所独特のものだろう。
蔵書の内容を確認するように通路を一巡りした後、衛藤は奥まった場所にあるAVコーナー(もちろん『オーディオ・ヴィジュアル』の略である。念のため)へと向かった。
なるほど、これはすごい。
CDの品揃えはもちろん、オペラやバレエ、フィルム時代のオケの名演をDVD化したものまで取り揃えてある。
衛藤はCDの棚からヴァイオリン協奏曲のタイトルがついた1本を取り出すと、側にある視聴ブースへと向かった。
「── げ」
ブースの先客に思わず声が出た。
自分の声がやたら響いて、慌てて口を閉じる。
先客とは誰あろう、宿敵・土浦梁太郎だったのである。
大きめの本格的なヘッドホンをつけ、どっしりと椅子に座る彼はやたら貫禄たっぷりに腕を組み、瞬きすることもなく前のモニターをじっと見つめている。
覗き見たモニターにはオーケストラの映像が映し出されていた。
衛藤は迷った。
ブースは彼の隣の席しか空いていない。
声をかける気なんて起きるはずもなく。
ヘッドホンをつけているのだからどうせ聞こえないし、気づかせるには肩を叩くなりしなければならない。
そこまでする義理はない。
かといってこのまま帰るのは、尻尾巻いて逃げ出すようで悔しいし。
結局、堂々と隣の席に座ってやることにした。
相当集中しているのか、衛藤が席についても土浦の視線は画面に固定されたまま。
ふと、彼の足元にヴァイオリンケースが置いてあることに気がついた。
へぇこいつ、ヴァイオリンもやってんのか、などと思いつつ、一緒に置かれたバッグに目が行った。
閉め忘れたのか、開いたままのスポーツバッグの中にはヴァイオリンの教則本が見える。衛藤が初めて分数ヴァイオリンを手にした頃に使っていた教則本と同じようなレベルのものだ。
ゆっくりと視線を上げると、画面の中のオケを食い入るように見つめる土浦の横顔に行き着いた。
彼がキコキコとヴァイオリンを鳴らしている場面を想像して、思わずぷっと吹き出してしまった。
と、無遠慮な視線に気付いたらしい土浦がちらりと横目で険しい視線を送ってきた。
抗議を含んだ視線はすぐにモニターへ戻され、次の瞬間、腰から上でガバッと振り向いた。
「── ! ……人のことジロジロ見て、変なヤツだなと思えば……お前か」
「うるせぇ。あんたこそ二度見すんなよ、失礼なヤツ」
「どっちが失礼なんだよ」
ヘッドホンを外しながら、土浦は呆れたような目で衛藤を見る。
衛藤も負けじと恨みがましい目で睨みつけた。
もちろん場所を弁えている彼らは、お互いにしか聞こえない程度の小声である。
土浦はデッキから取り出したディスクをケースにしまうと席を立った。バッグとヴァイオリンケースを一緒くたに肩にかけ、DVDを棚に戻してさっさと外へ出て行く。
反射的に衛藤も席を立ち、開けることすらなかったCDを元あった場所に戻して土浦の後を追った。
「置いて帰ってもいいのか? 結構薄情なんだな、あんた」
玄関ロビーに続く廊下で衛藤は声を張り上げた。
足を止め、振り返った土浦は不思議そうに首を傾げる。
ふと何かに気づいた彼は、ニヤリと不敵な笑みを口元に浮かべた。
「── 悪いな、今日は俺ひとりなんだ」
『彼女』が一緒であるのを前提に考えていたことに、衛藤は思わず唇を噛んだ。
ゴトゴトン、と重い音。
玄関ロビーの自販機の取り出し口に手を突っ込んだ土浦が振り向きざまに缶を放り投げ、衛藤は慌ててキャッチした。
おごってやるよ、と笑う土浦に缶を投げ返そうと思ったが、彼は既に自分の分の飲み物を自販機から取り出すところだった。
ロビーの椅子に腰を下ろした彼が缶を開けると、プシュッと炭酸の抜ける小気味よい音。
ゴクゴクと喉を鳴らしておいしそうに飲んでいる彼を見ていると、自分も喉の渇きを覚えているような気がしてきた。
ありがたくおごられておくか、と手元を見ると、それは彼が飲んでいるのと同じ炭酸飲料だった。
今開けると、さっきキャッチした衝撃で中身が吹き出すかもしれない。
ちょっとした嫌がらせだろうかと憤慨しつつも、ここで缶を開けることは諦めた。
「……あんたさ」
なんとなく場がもたなくて、仕方なく話しかけてみた。
缶に口をつけたまま、ん?、と視線だけ寄越す土浦。
「……あんた、ピアノやめてヴァイオリンに転向でもしようってわけ? なんなら俺が教えてやろうか?」
精一杯の皮肉を込めて、薄く嗤(わら)って言い放ってやった。
「── まさか」
土浦は動じることなくニヤリと笑い、再び缶に口をつける。喉を大きく逸らして飲み干すと、ゴミ箱へと缶を放り入れた。
中でぶつかり合った缶が、カランカランと耳障りな音を立てた。
「単純に、弦楽器への興味、だな」
「はぁ? ……あいつがやってる楽器だから…か?」
「まあ……それもまるきりないわけじゃないが、最初に教わったのが王崎先輩でさ」
知った名前が出てきて、衛藤は驚いた。
昔、同じヴァイオリン教室に通っていて面識がある。確か彼は半年ほど前にプロデビューしたはずだ。
「先輩がウィーンに行く前に後輩って人を紹介してくれてな、今日もこれからレッスンなんだ」
ふと我に返ったのか土浦は、なんでお前にこんな話しなきゃなんねーんだ、とぼやきながら頭をガシガシ掻き毟りつつ、腕を持ち上げ時計を見る。
「うわっ、やべぇ!」
舌打ちひとつ、彼は床に置いてあったカバンとヴァイオリンケースを拾い上げ、出口へと駆け出した。
シュッ、と開いた自動ドアのところで振り返り、
「あー、あいつなら当分帰ってこないぜ。師事してるヴァイオリンの先生と山篭りしてるからな」
言い捨てて、夏の強い日差しの中へと飛び出して行った。
「……………ふーん」
誰もいないロビーに響く自分の声が拗ねたように響いた。
いや、実際拗ねているのだろうけれど。
山篭り、か。
心の中で彼からの情報を反芻してみる。
きっと夏休みを使って集中特訓でもしているんだろう。
休み明けに彼女の音を聞くのが楽しみではあるが── 休み中に会うことはないのかと思うと寂しいような気がしてきた。
視線を落とした床には落ちた水滴が三つほど光っている。手の中の缶がびっしょりと汗をかいていた。
いくらなんでも、もう中身が吹き出すことはないだろう。
衛藤はゆっくりとプルトップを引き上げる。
金属のカチリと硬い音と、プシュッと気体の抜ける音がほぼ同時に聞こえた。
口に流し込んだジュースは少し温くなっていて、炭酸が痛いほどチクチクと刺しながら喉を流れ落ちていった。
〜おしまい〜
【プチあとがき】
なんかすごく切ないぞ、衛藤くん。
2fアンコ発売までに収拾つけたいんだけどなぁ……
【2009/08/04 up】