■子猫のワルツ #08
「── おい香穂、しっかりしろっ!」
そろそろ梅雨の話題がちらほらと聞こえ始める頃ではあるが、気の早い太陽はまるで夏のような日差しを振り撒き、衣替え前の冬服ではじっとりと汗をかくほどに暑い。
そんな週明けの昼休み、ちょうど森の広場に足を踏み入れた途端に飛び込んで来た檄を飛ばす声に、衛藤は慌てて駆け出した。
緑濃い樹が作る木陰に、ふたりはいた。
ブロック状の石材を転がしてあるだけのようにも見えるベンチに並んで座っている。
が。
さっきの声の主・土浦梁太郎は隣に座る人物の肩を掴み、半ば焦り、半ば呆れた様子で大きく揺すっていた。
そして、揺すられているのは日野香穂子。
頭がぐらんぐらんと力なく揺れている。
その顔は、漫画でよくある『口から魂が抜け出している』ような、虚無感に満ちていた。
「……おい、どうかしたのか?」
思わず口にした問いかけに、視線を寄越した梁太郎から小さな舌打ちが聞こえた。
「あー……昨日、発表会が終わってさ………燃え尽きたんだよ、こいつ」
「はあ?」
そういえば以前そんな話を聞いたな、と思い出すと同時に、日時も場所も聞いていなかったせいで彼女の演奏を聞き逃したことに苛立つ衛藤。
「……たかがピアノ教室の発表会のエキシビでか?」
苛立ちはそのまま嫌味となった。
と、梁太郎は、はぁ、と深い溜息を吐き、
「んなわけあるか── 体力的に、だよ」
梁太郎曰く、練習量が足りていないという自覚を持っていた香穂子は、自宅にある簡易防音室にこもって明け方までヴァイオリンを弾き続ける日々が続いていたという。
聴衆が誰であれ、ステージに立つからには納得してもらえる、自分自身も納得できる演奏を。
そんな緊張感があるうちはよかったが、ステージを終えてからは気が抜けてしまったのか、現在のような状態になってしまったらしい。
「……それってさ、ただの睡眠不足じゃねえの?」
「まあ、それもないわけじゃないが……けどな、昼過ぎに終わって、夕方くらいまでウチで寝てて、家に送り届けた後も晩メシも食わずに朝まで寝てたんだぜ?
いくら睡眠不足でも、それだけ寝りゃ回復するだろ」
再び梁太郎は深い溜息を吐く。
そこに鳴り響いたのは、昼休み終了を告げるチャイム。
「うわっ、やべぇっ! 香穂っ、起きろっ!」
どんなに力任せに揺さぶられようと、まったくの無反応な香穂子。
ちっ、と舌打ちした梁太郎はやおら制服の上着を脱ぎ、座る香穂子の腰に巻きつけ、腹のところで袖をぎゅっと結ぶ。
『何やってんだ、こいつ?』と衛藤が不思議に思っているうちに、彼はぐっと姿勢を低くすると、
腰から膝裏までが上着ですっぽり隠されている彼女の身体をひょいと肩に担ぎ上げたのである。
「おい、お前も急がないと授業遅れるぞ」
そう言い残した脚力自慢の彼の姿はどんどん小さくなっていく。
女子の制服のスカートって結構短いんだよな、と彼の気遣いに感心しつつ、彼の背中で揺れる香穂子の頭をぼんやりと見送り──
ハッと我に返った衛藤は、やべぇ、と慌てて駆け出したのだった。
〜おしまい〜
【プチあとがき】
いろいろとありえないこととかツッコミどころは多いでしょうが、スルーしてね♥
【2009/06/03 up】