■子猫のワルツ #07
放課後、久しぶりにいとこの顔でも見に行こうかと特別教室棟を歩いていた衛藤は、前方に見慣れた後ろ姿を見つけて駆け寄った。
ぽん、と肩を叩いて隣に並び、
「よ、香穂子っ」
驚かせてしまったのか、びくり、と身体を震わせた香穂子は『あ、桐也くん』と弱々しい笑みを見せた。
なんとなく感じが違うような気がした。
いつもなら、ぱあっと明るく光に照らされたように笑う人なのに。
「……元気ないな」
「んー、そんなことないけど…」
香穂子はふぅ、と息を吐いてから、
「── 1日が24時間って短いと思わない? 30時間くらいあれば、もっと練習できるのに……」
「はあ? ……あんた、いつも練習ばっかしてるくせに、まだ足りないってか?」
「うん、足りない」
すっぱりと言い切った彼女の言葉に、思わず絶句してしまう。
そのまま並んで歩いているうちに、いつしか音楽室へ辿り着いていた。
防音の効いた重い観音開きの扉を押し開け、中へ入る。
階段状になった音楽室の最下段、教壇の横に置かれたグランドピアノの側には、衛藤が最も視界に入れたくない人物の姿があった。
「げ……」
思わず口から出てしまう声。
ピアノの側の人物── 梁太郎の眉が険しく顰められた。
彼は衛藤がいることを特に言及することもなく香穂子に視線を移し、
「遅かったな」
「ごめん、日誌持って職員室行ったら、先生に雑用頼まれちゃって」
「そうか……んじゃ、始めようぜ」
梁太郎は楽譜を開いて、ピアノの譜面立てへ置く。
ここで衛藤は初めて、彼がピアノを弾くということを知った。
もちろん音楽科にいるのだから何かの楽器をやってることは間違いないのだけれど、彼とピアノを結ぶイメージが湧かなかったというか。
確かに、これまで出会った時に彼がケースを持っているところを見たことがないのだから、少し考えれば判りそうなものなのだが。
高校生活の3分の2を過ぎたところでわざわざ転科した男の腕前がどれほどのものか聞いてやろう。
もしショボい演奏なんかしたら、鼻で笑ってやる── そんなことを思いつつ。
衛藤は出入り口すぐの座席に腰を下ろし、机の上に頬杖をつく。
その間にも香穂子はピアノに一番近い机でケースを広げ、ヴァイオリンの準備をしていた。
彼女がヴァイオリンを顎の下に挟んだちょうどいいタイミングで、梁太郎が調弦のためのAの音を鳴らす。
不快な不協和音がどんどん澄んだ和音になっていった。
そして。
ふたりが視線で合図し合い、始まる曲。
「……………すげぇ」
衛藤は思わず呟いていた。
梁太郎のピアノは迫力があって、それでいて繊細で。
鼻で笑ってやろうと思っていた自分がバカみたいに思えてくるほどの技術を持ち合わせていた。
そのピアノの音に、香穂子のヴァイオリンは完全に負けていた。
1曲を弾き終えて、梁太郎はがしがしと頭を掻きながら、
「まだ合わせられる段階じゃないな」
「うん………わかってる」
「んじゃ、2、3日してからまた合わせてみようぜ」
「……そうだね」
淡々と交わされた会話の後、香穂子は『私、練習室行くから』とヴァイオリンをさっさと片付けて音楽室を出て行った。
ギッ、と重い音を立てて扉が閉まる。
「── へぇ、意外」
「………」
わざとらしく張り上げた衛藤の声に、梁太郎はただ一瞥を返しただけで、椅子に立てかけてあったカバンから別の楽譜を取り出し、ページをめくり始めた。
このままここで練習を続けるつもりなのだろう。
「あんたって、結構冷たいんだな。普通、もっとアドバイスとかしてやるんじゃねーの?」
「……練習不足の相手にしてやれるアドバイスなんてないだろ」
「そりゃそうだけど……『練習頑張れ』とかさ」
「んなもん……あいつ自身が一番よくわかってるさ」
さっきの彼女の顔が目に浮かんだ。『練習時間が足りない』と言い切った彼女の真剣な顔が。
ふぅ、と梁太郎が息を吐く。
「……ったく、断っちまえばよかったのに」
「はぁ?」
彼が吐き捨てるように呟いた言葉が聞き取れなくて、衛藤は思わず聞き返す。
再び梁太郎は大きな溜息を吐き、
「……今の曲な、本来練習する必要のない曲なんだよ。授業でやってる曲もあるし、ヴァイオリン教室でレッスンしてる曲もある。その上ヴァイコンのソリストまで引き受けてるだろ?
それでなくてもいっぱいいっぱいのはずなのに── 今度の発表会で演奏してほしいって、うちの母親が直接あいつに頼んだらしくてさ」
こめかみをグリグリと押さえながら、ぼやく梁太郎。
彼の苦悩の表情からして、相当彼女を気遣っていることは一目瞭然である。
「だったら辞めさせればいいじゃん」
「それができりゃやってるさ。俺が知らされる前に、母親がしっかり生徒たちに宣伝しちまってたからな、今さら変更できないんだよ」
ここで衛藤の頭に浮かぶ疑問。
「……けどさ、『発表会』とか『生徒』とかって……あんたの母親、何者?」
すると梁太郎はこめかみに指を当てたまま目をぱちくりして、
「あー、言ってなかったっけ? うち、ピアノ教室やってんだよ。で、うちの母親が講師」
「そこになんで香穂子が絡んでくるんだよ」
「大学行けば副科があるだろ? んで、うちの教室でピアノ習ってんだよ」
あーなるほど、と納得したものの、さらに梁太郎のぼやきは続く。
「── にしてもあいつ、うちの家族とやたら仲がいいんだよな。俺の知らないうちに姉貴とふたりで買い物行ってたり、弟とゲーセンで遊んでたり、母親とスーパー行ってたりさ。
ま、俺もあいつの母親とちょっとした料理のレシピなんか教え合ったりしてるから、お互い様なんだけどな」
ふ、と笑みをこぼす梁太郎。
聞いているのが馬鹿らしくなった衛藤は、げっそりしながら音楽室をそっと抜け出したのだった。
〜おしまい〜
【プチあとがき】
香穂子さんは、土浦家ではお姉様を筆頭にすごく可愛がられてると思う。
梁太郎さんも、日野家でちやほやされてるんじゃないかと思う。
そんな家族ぐるみのお付き合いに、衛藤くん撃沈(笑)
【2009/05/05 up】