■子猫のワルツ #04
校内にこんなにも緑が溢れる広いスペースがあるのはすごいことだ、と思う。
ひょうたん型の池や、遊歩道もある。
ところどころには石造りのベンチや、妙なオブジェまで。
この学院に入学して以来、森の広場は衛藤のお気に入りの場所となった。
ただし、音楽科校舎から遠いのがネックではあるのだが。
今日も彼は昼食をさっさと済ませ、ふらりと広場を訪れた。
うーん、と背伸びして空を見上げる。
春の柔らかな日差しがぽかぽかと暖かい。
力を抜いて腕を振り下ろし、こきこきと首を回していると、広場に入ってすぐにあるベンチに座る華奢な後ろ姿を発見した。
譜読みでもしているのだろう。顔の横に上げられた左手のほっそりした指が、弦を押さえるかのように動いている。
時々吹き付ける強い風が彼女の長い髪を舞い上げると、たった今までエアヴァイオリンを奏でていた左手が乱れた髪をすっと撫で付けた。
衛藤は思わずきょろきょろと周囲を見回してみた。
── 連れの姿はないようだ。
彼は、よし、と心の中でガッツポーズを決めると、ベンチへと駆け出した。
「──よっ、香穂子!」
肩をぽん、と叩き、彼女が座るベンチを跨いで座る。
「う……わ、びっくりした」
大きな目をさらに大きく見開いている香穂子。
衛藤はニッと笑うと、「何やってんの?」と彼女の膝の上に広げられた楽譜を覗き込んだ。
「これって……ヴァイコン?」
「うん、この前オケ部に来てた都築さんにソリスト頼まれちゃって」
少し首を傾げて、えへっ、と笑う彼女の笑顔に思わず見とれてしまう。
2つも年上なのに、こういう仕草が可愛いんだよな、などと思いつつ。
「…ソリストって……あんた、またコンサートやんのか?」
「ううん、練習したいんだって。この間オケ部に来てたのも、大学じゃなかなかオケで振る機会がないから、理事長さんに頼んでオケ部を貸してもらったらしいんだ。
今回のヴァイコンはオケ部も嬉しいみたい。今まで編成の関係で弦のコンチェルトはできなかったらしいから」
「で……ソリスト引き受けたってか?」
「うん♪」
嬉しそうに頷く香穂子。
まったく、この人は──
「── なんか……すげーな」
「だよね〜。都築さんって音楽一筋なんだよね。うん、すごくかっこいい!」
……はぁ。
知らず零れ出る溜息。
「……違うって── あんたのことだよ」
「え? 私?」
自分の鼻先を指差しながら、こくん、と首を傾げて。
ぱちぱちと瞬きを繰り返す大きな瞳に吸い込まれてしまいそうだ。
「あんたさ……今年から音楽科に移って、勉強とか大変なんだろ? そんなことに首突っ込んでる暇、あんのかよ」
「そりゃあ勉強は大変だけど……でも──」
彼女は困ったように言葉を切ってから、ふわりと微笑んで、
「── 楽しいもの♪」
あーもう。
本当にこの人は、音楽を心から楽しんでいる。
そんな想いは彼女の奏でる音に表れて、その音は聴く人の心を揺り動かすのだ。
「……いつからオケ部と合わせるんだ?」
「来週からだって」
「俺……聴きに行ってやるよ」
「うん、もちろん大歓迎だよ」
彼女の音が聴けるのが、無性に嬉しくなってきた。
オケ部に入ってみるのもいいかも、なんてことも思ったりする。
その時、ほかほかと温かくなった彼の心のうちを吹き飛ばすような一陣の強い風が吹いた。
「うわっ !?」
「きゃっ !?」
膝の上から飛ばされそうになった楽譜と舞い踊る髪を押さえた彼女。
風が治まって顔を上げた時、彼女は「痛っ」と小さく呟いて目元を気にし始めた。
「おい、どうかしたのか?」
「あ、ううん、大丈夫。ちょっと目にゴミが入っただけだから」
「マジ? 俺が見てやるよ」
指先で目元を押さえている彼女の顔に、自分の顔をぐいっと近づける。
「わ、わっ、い、いいってばっ! 水で洗ってくるからっ、ホントに大丈夫!」
顔を真っ赤にして慌てる香穂子。
それが面白くてさらに近づく衛藤の腕の付け根辺りに手を突っ張って、近づけさせまいと必死になっている。
彼女が触れている肩口が、制服越しなのにじんわりと熱くなっていくような気がした。
そこへザクザクと地面を踏みしめる、テンポの速い足音。
「── 何やってんだよ」
地を這うような低い声。
顔を見なくても誰かはわかる── 土浦梁太郎である。
「……ったく、どっから湧いてくんだよ」
「カフェテリアの入り口んとこでダチとしゃべってたんだよ」
そちらに目を向けると、確かにカフェテリアの建物の前に普通科の男子生徒がいた。
遠目でよくわからないが、心配そうな、というよりも野次馬根性丸出しのニヤケ面でこちらを見物しているようだった。
「そしたらそいつが『おまえの相方、男に襲われてるぞ』とか言うから来てみりゃ── って、おい、どうした?」
梁太郎はベンチにうずくまるようにして片目を押さえている香穂子に気がついて、彼女の肩を掴んで顔を覗き込んだ。
「目にゴミが入っちゃって…」
「ちょっと見せてみろ」
「ん」
彼女は目に当てていた手を外し、言われるままに顔を上げた。
と、梁太郎は彼女の頬にそっと手を当て、親指でぐいっと下まぶたを引き下げる。
赤く充血しているのが痛々しい。
梁太郎は立ったまま腰を折り、ぐっと彼女に顔を近づけた。
二人の鼻の頭がほとんど触れそうな位置まで。
もう少し近づけば、触れるのは──
「……特に何も見えないがな」
「んー、でも、ゴロゴロしてチクチクする」
「保健室行って、洗ってもらうか?」
「うん」
ベンチに跨ったまま、真横からその光景を見ていた衛藤は、ちっ、と舌打ちした。
「……俺が見てやるって言った時はすげー勢いで拒否したくせに、そいつならいいのかよ…」
唇を尖らせ、ぼそっと呟く衛藤。口調は完全に拗ねている。
「んー、梁の場合は慣れてるし」
「はあ? あんた、そんなにしょっちゅう目にゴミ入れてんの?」
「そうじゃなくて、距離っていうか──」
「ばっ…!? 余計なこと言ってないで、保健室行くぞっ!」
梁太郎が慌てて頬に添えていた手で彼女の腕を掴み、引きずるようにして校舎の方へと歩いていく。
ちっ。
再びの舌打ち。
『距離に慣れてる』って……そんなにしょっちゅう──
「くそっ、そんなことあるはずない!」
頭に浮かんだ想像を振り払うように、強く頭を振って。
くらりと眩暈を感じて、ほぅ、と息を吐き、空を見上げた。
相変わらず青い空の高いところで太陽が暖かな日差しを振り撒いている。
じんわりと視界が滲んでいるのは強い直射日光を見てしまったからだ、と衛藤は決め付けることにした。
〜おしまい〜
【プチあとがき】
おや? 衛藤くん、ちょっとめげてきた?
つか、彼は何を想像したんでしょうねぇ(笑)
【2009/04/16 up】