■子猫のワルツ #01
三月の終わり、日野香穂子は春休みでしんと静まり返った正門前を歩いていた。
新学期からの音楽科編入を控え、少しでも多くの専門知識を詰め込むための補習を受けていたのである。
隣を歩いているのは土浦梁太郎。彼もまた音楽科への編入が決まっている。
二人とも、両手の指で楽々数えられるほどしか今後袖を通さないであろう普通科の制服を、名残を惜しむかのように身に纏っていた。
「── あ、やべぇ」
ファータ像の側まで来たあたりでそう呟いて、梁太郎が足を止める。
「どうかした?」
「この前、指揮法のいい本があるって金やんが教えてくれてさ。今日、借りることになってたんだ」
「じゃあ、戻ろっか」
「いや、俺ひとりでひとっ走りしてくる。お前はここで待っててくれよ、すぐ戻るからさ」
「ん、わかった」
香穂子がすっと手を出す。
いつもなら彼女には大事な大荷物── ヴァイオリンケース── があるのだが、補習を受けるためだけに来ている今日はそれがない。
梁太郎は差し出された手の上に素直にカバンを乗せ、サンキュ、と踵を返して校舎の方へと駆け出した。
梁太郎の後ろ姿を見送って、二人分のカバンを胸元にぎゅっと抱き締め、香穂子はファータ像を見上げた。
飾りのついたスティックを誇らしげに掲げている妖精の像。
この星奏学院に加護を与える妖精、と語り継がれているこのファンタジーな生き物が実際に存在していると知っているのは、ごく僅かな者のみに限られる。
像の頭の上辺りにぽわんと光が生まれた。
「── 頑張っているな、日野香穂子!」
ファータ像を縮小したモノ── アルジェント・リリが満面の笑みを浮かべて宙に浮かんでいた。
「うん。でも、一気に詰め込みすぎて、頭の中が飽和状態だよ」
くすくす、と香穂子が笑う。
「ファータと相性のいいお前には音楽の素質がある。だから大丈夫なのだ!」
「うわ、他人事だと思って簡単に言ってくれるわねー」
「そんなことは── ん? あれは……」
香穂子の背後に視線を移して、リリが眉を寄せる。くるんと宙返りしてその姿を消した。
次の瞬間、香穂子の肩にズシリと重みがかかる。
「── さっきから何ひとりごと言ってんだ?」
「え…?」
「よ、香穂子、久しぶり」
肩を組むように腕を回して耳元で囁いたのは──
* * * * *
楽しみにしていた指揮法の本を手に、梁太郎は全速力で走る。
一見ズボラに見えて、実は生徒のことをよく見ていてきっちり仕事をこなしている教師・金澤は、いると思った音楽準備室に姿がなく、
あちこち探し回ったせいで少々時間がかかってしまったのだ。
香穂子を待たせているという焦りは、かつてボールを追ってピッチを駆け回っていた時よりも彼の走る足を速めさせていた。
そして校舎を勢いよく飛び出し、辿り着いた正門前で彼が目にしたのは── ファータ像の足元で、見知らぬ男に肩を抱かれている香穂子の後ろ姿だった。
思わず足を止めてしまったものの、梁太郎はギリッと奥歯を噛み締め、すぐに走り出した。
そのままの勢いで香穂子の肩から男の腕を引き剥がし、彼女の肩を引き寄せる。
突如腕を振り払われてきょとんとしている男を、目からビームでも出そうなほどの力を込めて睨みつけた。
「── 何やってんだよ」
威嚇の意味も込めて、努めて低い声で唸る。
男はだるそうにポケットに手を突っ込み、怪訝そうに眉をひそめ、
「何、って、あんたこそ何なんだよ── 香穂子、こいつ誰?」
くいっとしゃくりあげた顎で梁太郎を指し、香穂子に訊ねた。
今度は梁太郎が眉をひそめる番だった。
彼女の肩を抱き、彼女の名前を呼び捨てにするこの男は一体──?
「あ、えと、こちら土浦梁太郎くん。四月から一緒に音楽科に編入するんだ」
指を揃えた手を向けてくる香穂子の説明は、間違ってはいないが不満が残るものだった。
まあ、はっきりと『お付き合いしてます』などと宣言されても、気恥ずかしくてどんな顔をいいものやらわからなかっただろうが。
「へぇ……あんた、本気で音楽やる気になったんだ?」
「うん、そう。でね、こちらは衛藤桐也くん。前にヴァイオリンの練習を見てもらったことがあるの」
「練習、を…?」
香穂子はにっこりと無垢な笑みを浮かべて、うん、と頷くと、
「桐也くんね、秋にあったコンクールで優勝しちゃうくらいヴァイオリン上手いんだよね」
「あんなの大したことないって。レベルが違いすぎる」
衛藤は不敵に口の端を吊り上げた。
「── またヴァイオリン見てやるぜ? 俺、四月からここの生徒だし」
「えっ、そうなの !?」
「んじゃ、また会おうぜ、香穂子」
ポケットから出した片手をひらりと振って、衛藤は校舎の方へ向かって歩き出した。
通り過ぎざま、意味ありげに梁太郎をちらりと一瞥することも忘れずに。
「── 帰るぞ」
梁太郎は香穂子が抱き締めているカバンの一つをしゅっと抜き取り小脇に抱え、彼女の背をとん、と軽く押して正門へ向かう。
「あ、うん」
少し遅れた香穂子は小走りで梁太郎の隣に並ぶ。
「そっかぁ、桐也くん、四月からここの生徒なのかぁ……」
嬉しそうにしみじみと呟く香穂子。
梁太郎の心中は穏やかであるはずもない。腹の底で何かがふつふつと煮えたぎっている。
「── 合格のお祝いとか、してあげたほうがいいのかな?」
「……は? 『合格』?」
「だって四月に入学するってことは、入試に合格したってことでしょ?」
「あ、あいつ、中学生かよっ !?」
「そうよ。私、末っ子じゃない? 弟ができたみたいで、なんか嬉しいんだよね〜」
香穂子はけらけらと楽しげに笑う。
彼女は衛藤のことを『弟』としか見てないのかもしれないが、衛藤の方はもっと別の感情を持っているのは見るからに明らかで。
『波乱の幕開け』── そんな言葉が梁太郎の頭の中をぐるぐると渦巻いていた。
〜おしまい〜
【プチあとがき】
リハビリも兼ねて。
激ニブ香穂子さん。
土浦さんとはくっついたものの、衛藤くんの好意には気づかないほどニブいです。
ちょっとしたトライアングラーな感じで、短編集化してみたいと思ってます。
中途半端なのはそのせいです。
あ、ベースは土日ですから、衛藤スキーな人にはツラい展開になるかと。
タイトルの由来は、ワルツの指揮をすると三角形になる、というのと、
衛藤くんってネコっぽい印象があって。
そこに土浦さんお得意の『子犬のワルツ』をひっかけてみました。
そんな感じで、お付き合いのほどよろしくデス。
【2009/03/13 up/2009/03/19 拍手より移動】