■私を月に連れてって
梁太郎が頭からすっぽりかぶったタオルでガシガシと乱暴に髪を拭きながらバスルームの扉を開けると、そこには闇が広がっていた。
いや、正確に言えば真の暗闇ではない。
窓から差し込む月明かり。
わだかまるような夜の闇。
そのコントラストがくっきりと美しかった。
闇を四角く切り取ったような窓にそっと指先を触れ、一心に空を見上げている人影。
その影もまた月の淡い光に縁取られ、コントラストの一部になっていた。
肌に流れ落ちるようなロングドレスなら『月の女神』とも見まがうような幻想的な光景だ、と梁太郎は思った。
十二単ならば、かぐや姫だろうか。
言うことすべてが芝居がかっていた高校時代の友人の顔を思い浮かべ、こういう時に彼ならどんな形容をして彼女を褒め称えるのだろうかと苦笑しながら、
シンプルなパジャマ姿の女神にそっと近づいた。
「── 明かり消して、何やってんだ?」
「ん……月、見てた」
覗き込んだ香穂子の顔は、キラキラと降ってくるような月明かりを浴びて微かな笑みを湛えていた。
もしかすると泣いているのかもしれない、と根拠もなく思っていた梁太郎には少々拍子抜けだった。
彼女の視線の先に浮かぶのは、ほのかに黄色がかった真ん丸な月。
「……暗がりでニヤニヤしてるとは気色悪いヤツだな。『まんじゅうみたいでウマそう』とか考えてたんだろ?」
揶揄するように言うと、彼女は唇を尖らせ「違いますぅ」と睨みつけてくる。
再び満月に目を戻した彼女は、元の穏やかな表情になり、
「月がね、綺麗だなぁと思って」
一呼吸置いて、そうだな、と同意してやると、香穂子は満足そうに微笑んだ。
「自然界にあるものって、なぜか心奪われるっていうか……涙が出そうになることがあるよね」
自分の勘はあながち間違いではなかったらしい。きっと感傷的になっていた彼女の心が伝わってきていたのだろう。
と、ふたり同時にはっと顔を見合わせた。
「「グリーン・フラッシュ!」」
見事に声がユニゾンして、さらに同時に吹き出した。
高原で見た、日没の一瞬に輝く緑色の光。
その後も魅せられたように沈んでいく夕日を並んでただ見つめていた。
共有する思い出は、彼らが共にここにいる証。
「── まあ、あれは月じゃなくて太陽だったけどな」
「だね」
妙なスイッチが入ったのか、くすくすと笑いが止まらない。
梁太郎はふと思いついて、ピアノへ向かった。
蓋を開けると、闇に慣れた目にはほのかな月明かりだけでも鍵盤がはっきりと見える。
ここにもある、白と黒とのコントラスト。
被っていたタオルを首にかけ、手首を回しながら鍵盤に向かう。
奏で始めたのは、今のシチュエーションに最もふさわしいと思える曲。
「── あ、ドビュッシーの『月の光』だ」
「雰囲気ぴったりだろ?」
窓から離れてピアノの側にやってきた香穂子の顔を、梁太郎は得意げに口元に笑みを浮かべて見上げた。
しかし、うっとりと聞いているであろうと思われた彼女は不満そうに首を傾げている。
梁太郎は思わず鍵盤から手を離した。まだ10小節と弾いていない。
「……なんだよ、お気に召さなかったってか?」
「んー……ていうか、私が思い浮かべたのは──」
そう言いながら、香穂子がすっと姿勢を下げた。
椅子に座ろうとしているのだと気づいて、梁太郎は少し横にずれてスペースを空けてやる。
そこにすとんと腰を下ろした彼女は擦り寄るようにして彼の腕にもたれかかると、静かな澄んだ声で歌を口ずさみ始めた。
「─── 『Fly me to the moon』…か?」
「うん、いい曲だよね」
「へぇ、なかなかシブいな。半世紀も前の曲だぜ?」
「そうなの? 前にお兄ちゃんがハマってたアニメで流れてたんだけど」
「……やっぱお前の情報源はそっち方面か」
「悪い?」
他愛のない言葉のじゃれあいも、あえかな月明かりの中では静かな囁きになる。
「……で、月に行けたら、お前は何したいんだ?」
そうねぇ、と香穂子は梁太郎に預けていた身体を真っ直ぐに起こした。
「── ウサギと餅つき大会!」
拳を握っての力一杯の宣言に、梁太郎は脱力した。
「夢があるんだかないんだか……やっぱ食い気じゃねぇか…」
むぅ、と頬を膨らませる香穂子。
くつくつと笑いながら梁太郎は彼女の目の前に、ほら、と手を差し出した。
きょとんとして首を傾げる彼女に、手、と促す。
理解しきっていないながらも、香穂子は出された手に素直に自分の手を乗せた。
そのほっそりした手を、梁太郎はきゅっと握り締める。
僅かに力を込め引き寄せて、顔を近づけた。
「な── ななななななにっ !?」
鼻の頭がつきそうなほどの至近距離で慌てふためく香穂子に吹き出しそうになるのを必死に堪え、
「── つまり、こういうこと、だろ?」
「へっ !? こういうことって、どういうことっ !?」
「……お前、この曲の歌詞、意味わかってんのか?」
「もっ、もちろんっ………………よくわかんない…けど……」
「……後で教えてやるよ」
そう言って、梁太郎はさらに顔を近づけ、金魚のようにパクパクしている香穂子の口をしっかりと塞いでやった。
── In other words, I love you.
〜おしまい〜
【プチあとがき】
自分に都合のいい部分だけを抜粋なさった土浦さん(笑)
てっきりボサノバだと思ってたら、元はジャズなんだってね。
ボサノバ調はアレンジのひとつなんだとか。
微妙にfアンコからネタを引っ張ってみました。
むむん、最近のあたしの作品にしては砂吐ける部類に入ると思うんだけど…
歌詞と日本語訳はググれば出てきますので、お調べくださいませ。
あーなるほど、と思っていただけるかと。
アニメはもちろんエ○ァですよん。
【2009/08/30 up/2009/09/15 拍手お礼より移動】