■目 撃 土浦

※短編「楽しい留学らいふ」以前のお話です。

 次の授業へ向かうべく校内の中庭を横切っていた梁太郎がふと校舎の方へ目をやると、大きなガラス窓の向こうに見慣れた人影が見えた。
 彼が見間違うはずもない、香穂子の姿である。
 壁に背を預け、ちらちらと腕時計を見ているということは、誰かと待ち合わせをしているのだろう。
 と、香穂子が廊下の奥に向かって笑顔で手を振った。
 待ち人来たる、といったところか。
 そして、そこに現れた人物に、梁太郎は呆然とした。
 高校時代からの腐れ縁、とも言うべき月森 蓮。
 無駄に姿勢よく歩いてきた彼は軽く手を上げ、香穂子の前に立ち止まる。
 まあ、同じ日本人留学生のよしみもあるし、月森は単にそこを通りかかっただけかもしれないし。
 そう思いながら見ていると、再び香穂子が廊下の奥に手を振り始めた。
 小走りに駆け寄ってきたのは大柄で体格のいい、栗色の髪を短く刈り込んだチェロケースを背負った男だった。
 音楽家というよりも格闘家と言ったほうがしっくりくるその人物は、あろうことかいきなり香穂子にがしっと抱きつくと、ぎゅうぎゅうと締め付けるように抱き締めたのだ。
「なっ…!?」
 『人の女に何しやがる!』と威嚇したいのはやまやまではあるが、いかんせん校舎までは微妙に距離があった。おまけにあちらは校舎の中、はめ殺しの窓ガラスの向こうにいる。
 何よりあまりの光景に身体は石のように固まってしまっていた。
 確かに高校生の頃から彼女はいろんな男に好かれていた。
 コンクールのライバルは彼女に関してもライバルだったし、秋にはもう一人ライバルが加わり、他の男子生徒たちからも人気が高かった。
 果てはコンクール担当のズボラ教師や新理事長までが彼女に気があるのでは、と疑ったこともある。
 それからいろいろあって彼女を手に入れ、共に音楽の道を歩むべくウィーンにまで来たというのに。
 外国人にまでモテモテかよ、と心の中でげっそりとひとりごちる。
 彼が動けるようになったのは、校舎の中の3人が楽しそうに話しながら練習室棟の方向へ姿を消してしばらく経ってからのことだった。

 自宅アパートに戻り、ソファにドサリと転がった。
 ミニコンポに先日買ったオペラのCDを入れ、ボリュームを上げる。
 ヒステリックなソプラノが遠慮なしに耳に刺さった。
 夕食の支度なんてしたくもない。
 しばらくすると、玄関の扉がガチャリと鳴った。
 視線を向けると部屋の入り口で香穂子がパチパチと目を瞬いている。
 梁太郎は腹筋でぐいっと身体を起こすとミニコンポに手を伸ばし、CDを止めた。
「ただいま……びっくりした〜、間違って劇場に入ったのかと思っちゃった」
 香穂子は、あはは、と笑ったものの、梁太郎の表情を見て眉をひそめた。
「どうしたの? 何かあった?」
「……自分の胸に手を当てて考えてみろよ」
 ぶすっとした顔で吐き捨て、梁太郎はソファへゴロリと横になる。
「えっ、私、何かしたっけ?」
 顎に人差し指を当て、せわしなく視線を動かし必死に考えている香穂子。
 朝起きて、学校行って、授業受けて、練習して── とぶつぶつ呟きながら。
「えーっと、それから室内楽のメンバーと初顔合わせして──」
「その室内楽のメンバーってのには月森がいるんだろ」
「えっ、なんで知ってるの !? 今日決めたメンバーなのに」
「……中庭から見えた」
 ほんの少し唇を尖らせ、ぼそっと呟く様はまるで拗ねた子供のようだ。
「あー、あの廊下、中庭から見えるよね。なーんだ、だったら声かけてくれればよかったのに── あ、もしかして月森くんがメンバーだから怒ってる、とか?」
「今さらそんなことで怒るかよ」
「だよねぇ」
 くすくす笑いながら、香穂子は楽しそうに室内楽の話をし始めた。
 弦楽四重奏をすることになり、月森とチェリストとあの廊下で待ち合わせていたこと。
 ヴィオラ奏者が練習室を押さえに行っていて、あの後合流して練習を始めたら初合わせなのに結構息が合っていて、楽しくて練習が長引いてしまったこと。
「でね、チェロの子がすごく面白い子でね、練習中も笑いっぱなしだったんだよ。もう楽しくて楽しくて」
「……面白いヤツなら何されても許すのか、お前は?」
「え…?」
 香穂子はきょとんとした顔で小首を傾げた。
 ますます梁太郎の機嫌が悪化していく理由がわからない、という表情。
「ちょ、ちょっと何怒ってるの? 私が待ち合わせしてたとこ、見てたんでしょ?」
「ああ見てたさ。お前がチェロのヤツに抱きつかれてんのもな」
「やだ、あれはただの挨拶じゃない。ちょっと熱烈だったけど」
「ほー、挨拶ならいいのか。だったら俺が他の女に『挨拶』っつって抱きついてもいいんだな?」
「それはイヤに決まってるでしょ! ていうか、なんでそういう話になるのよ」
「俺はダメで自分はいいのか? 結構なご身分だな」
「ちょっと待ってよ! 私だって相手が男の子だったら拒否してるってば!」
「お前、言ってることとやってることが矛盾してねぇか?」
「してないっ! 見てたんでしょ !? 女の子に抱きつかれたくらいでそんなに怒らないでよ!」
「……………は?」
 ソファに寝転がり天井を見つめたまま会話を続けていた梁太郎は思わず肘を立てて身体を起こし、ソファへ横になってから初めて香穂子の方を見た。
 すっかり毒気が抜けてしまった梁太郎とは対照的に、今度は香穂子の方が怒ってしまったらしい。
 険しい顔つきで、ぎゅっと下唇を噛み締めている。
「……女…?」
「そうよ」
「あのガタイで?」
「お父さんが柔道家で、子供の頃から柔道やってたんだって」
「髪の毛、カリアゲだったろ」
「体格がいいから伸ばすと似合わないから、って」
「……マジで?」
「マジで」
 香穂子は最後にこっくりと大きく頷いてみせた。
 この場の言い逃れのためだけにすぐにバレる嘘をつくような女ではないのは梁太郎が一番よく知っている。
 つぅとこめかみを汗が流れた。
 力が抜けて、枕にしていたクッションにボスッと頭が落ちた。
 香穂子が、ぶっ、と吹き出した。唇を噛んでいたのは、笑いを噛み殺すためだったようだ。
 ソファの横にすとんと腰を下ろし、座面に頬杖をついて梁太郎の顔を覗き込み。
「もしかして、私が男の子に抱きつかれたと思ってヤキモチ焼いてたとか?」
 ツンツンと頬をつついてくる香穂子を横目でちらりと見れば、ニヤニヤと意地悪そうな笑みを浮かべていて。
 あまりの居心地の悪さに、梁太郎は頭の下のクッションをぐいっと引き抜き、顔を隠すようにして抱えると、無理矢理寝返りを打って彼女に背を向けた。
「あーそうだよ、悪かったなっ!」
「梁ってば独占欲が強いんだね〜♪」
「う、うるせぇっ!」
 クッションで隠れた顔はともかく、耳から首筋までが真っ赤に染まっている梁太郎。
 香穂子はふふっと笑って梁太郎の背中をぽんぽんと叩くと、
「だぁいじょうぶ、おとなしく独占されといてあげるから♪」
 ふふふふふふふ、といかにも嬉しくてしょうがないという香穂子の含み笑いがそれからしばらく続き、梁太郎は当分の間抱えたクッションから顔を上げることができなかったのだった。

〜おしまい〜

【プチあとがき】
 ドSな香穂子さん(笑)
 ウィーンに行ったうちの土浦さんはいつも怒ってる(笑)

【2008/09/19 up/2008/09/28 拍手お礼より移動】