■思惑違い 土浦

【お題】キスの詰め合わせ(by 恋したくなるお題さま)/07 温度差のあるキス
※「もどかしい距離」の続きです。未読の方はそちらからどうぞ♪

 梁太郎は夜の街を全力で走っていた。
 最寄の地下鉄の駅から自宅アパートまでの短い距離がやけに遠い。
 さて、部屋で待つ彼女はどんな顔で自分を出迎えてくれるだろう。
 遅い、と目に涙を浮かべ、頬を膨らませてみせるのだろうか?
 ゆうべは『できるだけ早く帰る』と言ったものの、予約した飛行機の時間を動かすわけにもいかず。
 ただ、帰りにちょっと飲んでいこうという友人たちの誘いは断ったのだ。一応の言い訳にはなるだろう。
 それとも、おかえり、と満面の笑みで飛びついてくるだろうか?
 それなら、ただいま、と抱きしめてやればいい。
 どちらにせよ、小脇に抱えたバッグの中のモーツァルト・クーゲルンを出してやれば、子供みたいに喜んでくれるだろう。
 そんなシミュレーションをしながらようやく辿り着いたアパート、エレベーターのボタンを無駄に連打して3階に上がり、駆け寄った見慣れた扉の前。
 大きく深呼吸して乱れた息を整え、鍵穴に鍵を差し込んで。
 カチャリ。
 静かに扉を開けた瞬間、耳に飛び込んで来たのは弦楽四重奏の妙なる調べ。
 数歩分の短い廊下を抜けると、
「あ、おかえりー」
 勉強中だったのか、ノートから顔を上げた香穂子がぴろぴろと手の中でシャーペンを振り、口にくわえたプレッツェルがゆらゆらと揺れていた。

 香穂子はプレッツェルの先端を指で押さえ、リスかネズミのようにポリポリと前歯で噛み砕きながら口の中に押し込むと、ノートの傍らのマグカップの中身をぐいっと飲み干した。
「お疲れ〜。えと、夕飯は向こうで済ませてるんだよね? 何か飲む?」
「……………」
 一体何なんだ、どのシミュレーションとも違うこの淡白な反応は?
 昨日の電話は何だったんだ? まさか夢だったとでもいうのか?
 腹の底から湧きあがってくる怒りにも似た感情。
 梁太郎は無言のまま、ダイニングチェアーから立ち上がった香穂子の横をすり抜け、バスルームへ向かう。
 バッグから取り出した洗濯物を洗濯機に放り込んでいると、
「ね、ね、お土産は?」
 後ろからついてきていたのだろう、香穂子が戸口から身体を乗り出していた。
 包みを取り出し、無言でぐっと彼女へ押し付ける。
「やった♪ さっそく食べよ、お茶いれるね♪」
 戸口から彼女の姿が消え、ガサガサと包みを開く音が聞こえてきた。
 お茶の準備をする無機質な音がそれに続いた。
 もやもやしたものが胸に広がっていく。
 梁太郎は洗濯機のフタを乱暴に閉めると、ツカツカとキッチンに立つ香穂子の元へ。
 細い肩をがしりと掴み、ぐいっと引っ張った。
「ぅわっ !?」
 思いがけず急に身体の向きを変えられてバランスを崩す香穂子を受け止め、驚きに目を見開いている彼女を逃がさないように頭の後ろを掴んでいきなり口付けた。
 肉食獣が草食動物を捕食しているかのような激しさで、全てが解けてしまいそうなほどに熱くて深いキスが続く。 さっき彼女が飲んでいたのは砂糖たっぷりの紅茶だったんだな、と冷静に判断しつつ。
 しばらくして梁太郎が腕を緩めると、香穂子はずるずると崩れ落ちて床にへたり込んでしまった。
 そんな彼女を残し、梁太郎は再びバスルームへと戻っていった。

 前日とは打って変わって陰鬱なバスタイムを終え、梁太郎は頭からすっぽり被ったタオルで髪をがしがし拭きながらバスルームから出てきた。
 タオルを首にずらして視界が開けると、キッチンにはシャワーを浴びる前と全く同じ状態でへたり込んだままの香穂子の姿があって、思わずギョッとする。
 コンロの上ではヤカンが勢いよく蒸気を吹き出していた。
 彼女の横に立ち火を消すと、スウェットの裾をくいっと引っ張られた。
「梁……何か怒ってる…?」
 スウェットの裾をぎゅっと握り締め、真っ赤に染まった顔で大きな目を潤ませ、上目遣いに香穂子が見上げてくる。
 シャワーでさっぱりして多少冷静さを取り戻した梁太郎は、あまりのバツの悪さにタオルで顔を拭く振りをして口元を隠し、あさっての方に視線を向けつつもごもごと呟いた。
「怒ってるっつーか…………なんか悔しかったっつーか…」
「え……?」
 きょとんとして小首を傾げる香穂子。
「だから……お前、昨日は淋しいとかって泣いてたくせに、帰ってみればいつも通りでさ。俺ばっかお前に会いたかったみたいで── 悔しかったんだよ」
 香穂子はぱちぱちと瞬きを繰り返し、一転、おろおろと挙動不審になった。
「い、いや、それはっ、もちろん私も会いたかったよっ! でも、時間が遅くても梁が帰ってくるから普段と同じだなーって思ったら、なんかこう、安心して落ち着いちゃったっていうか」
 彼女のあまりの慌てっぷりに、梁太郎は思わずぷっと吹き出した。
「……ご、ごめん」
「もういいって」
 まだ裾を掴んでいた彼女の手を取り、グイッと引っ張り上げた。そのまま彼女の身体を腕の中に囲い込む。
「えと……熱烈歓迎した方がよかったかな?」
「まあ、ちょっと期待してたけどな」
 ちょっとどころか相当期待していたのだけれど。
 しかし、自分が帰ることで安心する、と言われれば、思惑が外れたからといってヘソを曲げるのも馬鹿馬鹿しくて。
「じゃあ、次は万歳三唱で迎えようか?」
「それは恥ずかしいから勘弁してくれ」
 二人同時にぷっと吹き出して。
 ふと、梁太郎はまだ言っていなかった言葉があることに気がついた。
「あー、えーと………ただいま」
「うん、おかえり」
 再び重ねられた唇は、優しいぬくもりに満ちていた。

〜おしまい〜

【プチあとがき】
 うっかり盛り上がっちゃった人と、すっかり落ち着いちゃった人。
 土浦さん、ガキンチョすぎる(笑)

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