■迫り来る魔の手 土浦

 ── とにかく逃げなければ。
 痛む頬を押さえつつ、じり、じり、と後ろへ下がる。
 その分だけ男は迫ってきた。
 ドン、と背中が壁にぶつかった。
 同時に後頭部も打ちつけたのだが、手で押さえた場所の痛みの方が大きくて、気にもならない。
「── 香穂、いい加減言うことを聞けよ」
 目の前の男── 梁太郎は低い声でそう言って、これ見よがしに握った拳を振ってみせた。
 香穂子は赤く腫れ上がった頬を押さえたまま、ふるふると首を横に振る。
 目に溜まっていた涙が遠心力で散らばった。
「まだ痛い目見たいのか?」
 香穂子はふるふると首を振る。
「じゃあ俺の言う通りにしろ」
 またも香穂子は首を振る。ありったけの拒絶を込めて、今までよりもっと強く。
 梁太郎は握ったままの拳を腰に当て、はぁ、と溜息を吐いた。
 その隙を突いて、香穂子は彼と壁との隙間からするりと抜け出すことに成功した。
 寝室に飛び込み、扉を閉める。
 が、運動能力も反射神経も彼の方が上。
 あっさり扉を押さえられ、香穂子は更に後退するしか手はなくなった。
 再び、香穂子が後ずさり、梁太郎が追う。
「ぅきゃっ !?」
 ベッドに行く手を遮られ、そのまま後ろに倒れ込む香穂子。
 手と足でもがくようにして懸命に後ろに下がる。
 梁太郎が近づくにつれ、空気が異様な臭いを纏っていく。
 彼の片膝がベッドに乗せられた。ギシリ、とスプリングが嫌な軋みを上げる。
 もう香穂子の後ろに逃げ場はなかった。
「……お願い……許して……」
 香穂子の目からはぽろぽろと涙が零れ落ちていく。
「んなこと言って、辛いのはお前だろうが」
「でも、イヤなものはイヤ!」
 はぁ、と溜息を吐くと、梁太郎は香穂子の手首を掴み、頬から引き剥がした。
「ったく、こんな腫れるまでほっときやがって。だから明日歯医者行くまで虫歯の穴に正○丸詰めとけって」
 ずっと握っていた拳を開くと、そこには小さな黒い粒がひとつ。
 途端に強烈な臭いが部屋に充満していった。
「絶対イヤっ! ○露丸、飲んだだけでも当分臭いのに、歯になんて詰めてたらずーっと臭いもんっ!」
「痛いよかマシだろうがっ!」
「ヤダヤダ、絶対ヤだってばー!」
 香穂子の口を開けさせようとする梁太郎と、断固拒否する香穂子との壮絶なバトルはまだまだ続くのだった。

〜おしまい〜

【プチあとがき】
 DVとか鬼畜とか思った人、正直に手を上げて〜(笑)
 そんなのあたしが書くわけないっしょ?
 虫歯菌は感染するらしいが、梁太郎さんは大丈夫なのか?
 それにしても正○丸のメーカーさん、ごめんなさい。深い意味はないんです。

【2008/09/05 up/2008/09/13 拍手お礼より移動】