■もどかしい距離 土浦

【お題】キスの詰め合わせ(by 恋したくなるお題さま)/08 通信終了後の携帯にキス


 その日の夜、香穂子はひとりで遅い夕食を取っていた。
 テーブルの上には、すっかり顔なじみになったアパート裏のカフェハウスで夕方テイクアウトしてきたサンドイッチ。 さしておいしくもなさそうに噛み千切ってはもしゃもしゃと咀嚼して飲み下す、という行動を機械的に続けている。
 最初の一切れを食べ終えたところでミネラルウォーターをペットボトルのままラッパ飲み。 口元をぐいっと乱暴に手の甲で拭い、ボトルをテーブルにガンッと置いて、はあぁぁぁぁ、と深い溜息を吐いた。
 今、この部屋には彼女の同居人の姿はない。

 このまま食べ続けるのも億劫になって、香穂子はサンドイッチをテーブルの上に広げたまま席を立ち、ソファにどさりと身を投げた。
 片腕を目の上に当て、じっと動かない。
 今日は1日、何をするにも億劫だった。
 平日ならば学校があるけれど、あいにく今日は土曜日。
 忙しくしていれば気も紛れるかと思い、午前中は無心で掃除と洗濯をした。
 けれど時間が経つごとに、近づいてくる夜が怖くなった。
 このウィーンに来て初めて一人で過ごす夜が。
 いつもなら弾き始めれば周囲がまったく気にならなくなるはずのヴァイオリンの練習にも身が入らなかった。
 閉じた瞼とその上に乗せた腕で作り出した闇の中で、香穂子はこのまま意識を失ってしまえればいいのに、と思っていた。 そのまま眠り続けて、次の目覚めは彼によってもたらされればいい、と。
 すぅーっと肺いっぱいに空気を吸い込んで、搾り出すように全て吐き出す。
 以前聞いたことのある不眠症対策法だ。大きく呼吸することでのリラックス効果と、ちょっとした酸欠状態になって眠りに入りやすくなるらしい。
 何度か繰り返していると、ふわりとした浮遊感が身体を襲い始めた。

 その時。
 部屋の隅に置いたカバンの中で、携帯がにぎやかに鳴り始めた。
 この着メロの相手はただ一人。
 慌てて駆け寄り、大急ぎでカバンの中から探り出した携帯に出る。
「もっ、もしもしっ!」
『メシ、食ったか?』
「ぷっ」
 『もしもし』も『よう』もなく、第一声がいきなり『メシ』である。香穂子は思わず吹き出していた。
『おい、何笑ってんだよ』
「ぷははっ、だって、あははっ、『もしもし』くらい言ってよ〜」
 滲んできた涙を拭いつつ、ソファによじ登って膝を抱えた。
『あー悪い悪い。んで、食ったのか?』
「うん、裏のカフェのサンドイッチ。そっちは?」
『ああ、ホールの近くのレストランでみんなで食って、今ホテルの部屋に戻ったとこ』
「へー。なんだかご機嫌だね」
『まあな、メシもうまかったし、今日のリハもすげー勉強になったしな』
 今、この部屋の同居人・梁太郎は勉強のためザルツブルグにいるのである。
 ザルツブルグはウィーンから西に300km、鉄道で3時間、飛行機で1時間のモーツァルトゆかりの街。
 梁太郎が師事している先生の教え子が指揮をするコンサートのリハーサルを見学させてもらい、ステージ本番を聞いて帰ってくる、という、先生の厚意による課外授業のようなものだ。
 香穂子もついていきたかったが、他の数名の指揮科の学生と先生までいるのでは無理というもの。今朝早くに旅立った彼を、香穂子はこの部屋で見送ったのだった。
「えー、それだけ? なんかすごく声が弾んでるよ?」
『あー……ちょっと酒飲まされた』
「やっぱり……いいなー、楽しそうで」
『なんだお前、俺がいなくて寂しいんだろ?』
「っ──」
 茶化すような彼の一言に、思わず息が詰まった── 図星、だったから。
「── そ、んなわけないでしょ、私だって練習やら勉強やらで忙しいんだから。梁の方こそ、そんな遠くまでわざわざ行ってるんだから、しっかり勉強してきなさいよっ」
『へいへい、わかってるって』
 電話の向こうで笑っている気配。
 聞こえてくる声は確かに彼の声なのに、機械を通している分いつも間近に聞いている声とはまるで違う。
 二人の間にある距離をひしひしと感じて、香穂子は痛む胸をぎゅっと押さえた。
 それでも無理矢理明るい声を作り、
「あーそうそう、お土産忘れないでね、モーツァルトなんとかってやつ」
『…モーツァルトクーゲルンだろ、わかってるって』
 また電話の向こうで呆れたように笑っている。そんな彼の顔がありありと目に浮かんできて、これ以上話していると泣いてしまいそうだった。
「あっいけないっ、見たいテレビあったんだ! じゃあね!」
 偶然視界に入ったテレビを理由にして、一方的に電話を切った。
 携帯を胸元に抱きしめるようにして、はぁ、と大きく肩で息をする。
 ── よかった、電話の途中で泣き出したりせずに済んで。
 再び携帯のディスプレイを覗き込めば、そこには待受画面に設定している彼の画像。
 照れ臭そうな笑顔にそっと口づけると、その感触のあまりの無機質さに思わず涙がひとしずく、香穂子の頬を伝って落ちた。

*  *  *  *  *

 一方的に切られた携帯を呆然と見つめる梁太郎。
「……相変わらず慌しいヤツだな」
 いつもバタバタしている彼女らしいといえば彼女らしい。思わずぷっと吹き出して、椅子代わりに座っていた硬いベッドにごろりと転がった。
 携帯を操作して、デフォルトの待受画面から画像フォルダに切り替える。
 呼び出すのはたった1枚だけ保存されている画像データ。
 ピッ、と小さな電子音と同時にディスプレイに表示されたのは、気持ち良さそうにヴァイオリンを奏でる彼女の横顔を写したもの。
 その頬に唇を寄せ── ようとしたところでハッと我に返り、
「……何やってんだ、俺」
 とポリポリと指で頬を掻く。
 それから、小さな画面の中の動かない彼女を見ているうちに違和感を感じ始めた。
 からかうように「寂しいんだろ?」と問いかけた後の不自然な間。
 なんとなく気になって、がばっとベッドの上で身体を起こし、さっきかけたばかりの番号にリダイヤルする。
 長い呼び出し音の後に、相手が電話に出た。
「もしもし?」
 電話の相手は梁太郎だとわかっているはずなのに、彼女は無言だった。
「どうしたんだ、香穂?」
 呼びかけると、うっ、と小さな嗚咽の後にずずっと鼻をすする音が聞こえた。
「お、おい、なんで泣いてんだよっ」
『だって……梁が、いないんだもん…っ』
「っ……」
 梁太郎は一瞬言葉に詰まり、がしがしと頭を掻く。
「あのな……俺、明日の今頃はそっちに帰ってるんだが」
 そう、梁太郎のザルツブルグ課外授業は1泊2日であった。
『だってっ! ウィーンに来てから夜ひとりになるの初めてなんだもんっ! 寂しいものは寂しいんだもんっ!』
 逆ギレした香穂子の大声が耳に刺さり、梁太郎は慌てて携帯を耳から離す。
 おとなしくなったところで再び携帯を耳に戻し、
「わかった、できるだけ早く帰るからさ」
『……ほんと?』
「ああ、ほんと」
『絶対?』
「ああ、絶対」
『うん……待ってる』
 彼女の声に少しだけ明るさが戻った。
 梁太郎はそっと溜息を吐いて、
「んじゃ、火の始末と戸締りをちゃんとしてから寝ろよ」
 ぷっ、と吹き出す音がして、わかってる、と小さな声が聞こえて来た。
 じゃあな、と電話を切る。
 それからもう一度彼女の写真を呼び出した。
「……ったく、一晩いないくらいで泣くなよな」
 けれど、一晩いないくらいで彼女に涙を流させることができるのは自分ひとりだと思えば不謹慎だが嬉しくて、 1人部屋で人の目がないのをいいことにディスプレイの中の彼女に音高く口づける。
 明日はどんな熱烈な歓迎を受けるだろうかと想像すると、自然と頬が緩んだ。
「さて、と……シャワーでも浴びるか」
 ぱかん、と畳んだ携帯をベッドの上に放り出し、今日リハで聞いた交響曲を鼻歌に乗せながら、梁太郎はご機嫌な様子でバスルームへと入っていった。

〜おしまい〜

【プチあとがき】
 こいつらバカだ、真性のバカだ(笑)
 自分で書きながら、あまりのバカップルぶりにニラニラしちゃったよ。
 このお題だけはアシュ千、サザ千じゃ絶対無理だからなー。

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