■Hold me tight 土浦

 その日、土浦梁太郎はとっぷりと日が暮れた街を急ぎ足で自宅アパートへと向かっていた。
 次の課題として出された曲について学校の図書館で調べていたら思いのほか夢中になってしまい、警備員に『閉館時間だよ』と肩を叩かれて慌てて飛び出したのである。
 手に提げられているのは適当に見繕ったテイクアウトものの入った袋。
 帰ってから夕食の支度をしたのでは遅くなってしまうから、学校から駅へ向かう間に家でエサを待っている雛鳥── 香穂子にはその旨メールしてある。 ヘタに夕食作りを頼むより、しばしの空腹を我慢させておくほうがよほど安心だ。
 エレベータの扉が開くのももどかしく廊下に飛び出し、ドアに駆け寄り鍵を開ける。
「ただい── ま…?」
 開いた扉の中には、闇が広がっていた。
 彼女はまだ帰宅していないのだろうか?
 まだ学校── ということはない、梁太郎は閉館だと追い出されるまで学校にいたのだから。
 ならば、友人とどこかに寄っているのだろうか?
 だったらメールした時にそういう返事が来るだろう。
 それどころか、いつもなら『わかった』とか『気をつけてね』とか何かしらの返事をよこしてくるはずの彼女からの返信すらなかったのだ。
 ……彼女の身に何か起きたのだろうか?
 ドクン、と心臓が大きく脈打った。
 照明のスイッチを手探りして明かりをつける。闇は一瞬にして追い払われた。
「なっ……!?」
 目に入ってきた光景に梁太郎は言葉を失った。
 朝、出かける前はきちんと片付いていたはずの部屋は見るも無残に散らかっていたのだ。
 ── まさか泥棒 !?
 部屋を物色中の泥棒と、帰宅した香穂子が鉢合わせして── そんな嫌な想像が頭に浮かぶ。
 しかし、よく見れば物色された、というよりも、単に床に『物』が散らばっているだけ。
 『物』というのは紙類── 楽譜だけだった。
 どうやら泥棒ではなかったらしい。
 ふぅ、と息を吐いて、びっしりと赤い色鉛筆で書き込みされた楽譜を拾い集めながら部屋を見渡す。
 ダイニングテーブルの上にはヴァイオリンがひっそりと横たわっていた。
 ソファの前のローテーブルには弓が無造作に置かれている。
 集めた楽譜を軽く揃えて、部屋の真ん中にぽつんと取り残された譜面台の上に乗せた。
 そして、扉が開けっ放しにされている寝室の方へと向かう。
 暗がりの中、ベッドの真ん中にうつ伏せになって枕に顔を埋めている香穂子がそこにいた。

 寝室の明かりはつけぬまま、梁太郎はベッドに腰を下ろす。スプリングがギシッと音を立てた。
「どうしたんだ?」
 返答はない。
「かーほ?」
 身体を捻り、顔を覗き込むようにして声をかける。
 と、むくっと起きあがった香穂子がタックルをかけるようにして抱きついてきた。彼女の肩が喉仏を直撃し、一瞬息が詰まる。
「なんかあったのか?」
 むずかる子供をあやすようにポンポンと背中を叩いてやる。
「…………………て」
「ん?」
「……ギュッてして」
 耳元で囁くような声に甘えるような柔らかさはなかった。
 真剣な、助けを求める者が何かにすがりつくような、切羽詰った声。
 何かを察した梁太郎は、もうそれ以上何も言わずに彼女の身体を引き寄せ、強く抱きしめた。

 それからどれくらい経っただろうか。
 はぁ、と細い息を吐いた香穂子の身体から力が抜けた。
「………梁…」
「…ん?」
「……お腹空いた」
 思わずぷっと吹き出して、彼女の身体から腕を解く。
 その途端、香穂子はベッドをひょいと飛び降り、明るいリビングの方へと歩いて行った。
「香穂」
 名前を呼ぶと、香穂子は寝室の戸口── 光と闇の境目で足を止めた。
「なあに?」
 答える彼女は振り向かないまま。
「もう……平気か?」
「うん、ちょっとしたスランプっていうのかな……たぶんもう大丈夫」
「そうか…………んじゃ、メシ食うか」
「うん…………………ありがと」
 明るい声でそう言い残して香穂子が入っていった洗面所からバシャバシャと水音が聞こえて来た。きっと顔を洗っているのだろう。
 もう大丈夫── 梁太郎は安堵の溜息を吐くと、出来合いの食事をテーブルに並べるべくキッチンへと向かった。

〜おしまい〜

【プチあとがき】
 あ゛あ゛あ゛、あたしのスランプも癒してくれぃ。
 ギュッとするのは長編『Ecdysis』とリンク。
 何があったんでしょうねぇ、香穂子さん。
 ま、人生楽しいことばっかじゃないのさ、ってことで。

【2008/08/06 up/2008/08/12 拍手お礼より移動】