■自業自得
その日、月森 蓮は急ぎ足で校内のカフェテリアへ向かっていた。
昼休みは残り半分ほどしかない。
午前中のレッスンに先生共々熱が入り、長引いてしまったのだ。
特に食に対して貪欲な方ではないが、意外に体力勝負な演奏家たるもの、食事はきちんと取ることを心がけている。
とりあえず何か胃に収めておこうと足を速めていると、
「── 梁なんか大っきらいっ!」
このウィーンでは滅多に耳にすることのない日本語に思わず足を止めた。
声の主が誰か、なんてすぐにわかる。
彼女の怒声の中に出てきた『梁』という人物名にしても言わずもがな。
案の定、カフェテリアの入口から飛び出してきて、佇む月森の姿に気付くこともなく走り去っていったのは日野香穂子だった。
そして、続けて姿を現したのは──
「── ちょっ、待てって! 香穂っ! …………あ゛、月森…」
血相を変えて飛び出してきた土浦梁太郎。
「……あいつ、どっち行った…?」
バツが悪そうに頭をガシガシと掻きながら、宙に視線を彷徨わせつつ尋ねてくる。
「向こうに駆けて行ったが──」
顎を小さく動かして方向を示してやり、ふぅ、と小さな溜息ひとつ。
「……また喧嘩か?」
彼らはよく喧嘩をする。
原因を聞けば、いつも取るに足らない些細なこと。
いつぞやは 『原因? えと……なんだっけ?』 と本人すら忘れてしまっていたこともある。
感情的なふたりが顔を合わせていればぶつかり合って当然。
感情を出さなければ些細な口喧嘩にすら発展しないのだから。
溜息混じりの質問返しに梁太郎の眉がピクリと動く。
「ケンカっつーか……あいつが激辛メニューなんぞ注文するから止めたらあの調子だ……ったく、何考えてんだか」
「……彼女が何を食べようが、彼女の自由だと思うが?」
「普通の時なら止めないさ。だがな、あいつ、こないだ2日ばかり風邪で寝込んだんだ。まだ本調子じゃないってのに刺激物食わせたら、さすがにマズイだろ」
はふぅ、と大きな溜息を吐き。
「食いもんのことだけならまだいいが、小さいガキみたいにわがままばっか言いやがって……」
月森に向かって言ったのではなく、つい口に出してしまった独り言だろう。
苦々しいしかめっ面からして、彼女の行動に相当手を焼いているらしい。
月森は梁太郎が面倒見のいい人間だということを知っている。
それを彼女である香穂子に対しても遺憾なく発揮しているのだろう。
しかし。
「……君は寝込んだ彼女を至れり尽くせりで看護したんだろう?」
「はぁ? そりゃ……普通そうするだろ…」
「だったら、彼女はそれに味を占めて君に頼りきっているのか、それともあまりに過保護にされて反発しているかのどちらかじゃないのか?」
「っ !? ……解ったようなこと言ってんじゃねーよ」
「……そうだな、俺は彼女じゃない。実際彼女が何を考えているのかは解らない」
「テメェ…っ、俺にケンカ売ってんのかっ !?」
「そうじゃない。ただ、君が彼女の世話を焼きすぎたんだろうと言っているだけだ」
「くっ…」
「自業自得、としか言いようがないな」
梁太郎自身思い当たる部分があったのか、力なく項垂れるとガクンと肩を落とした。
体格のいい身体をしょんぼりと小さくさせている彼の様子が可笑しいのが半分、相変わらずな彼らに呆れたのが半分、月森は小さく溜息を吐くと、
ひとつささやかな助言をしてみることにした。
* * * * *
それから数日後の休日の朝。
香穂子はいつまでもけたたましく鳴り続けるアラームに目を覚ました。
いつもなら目覚ましのアラームなんて夢の中で遠くに聞いていて、最終的には梁太郎に起こしてもらうのが常なのだが。
その梁太郎は香穂子に背を向け横たわったまま、ピクリとも動かない。
仕方なく香穂子は梁太郎の頭の上に乗り出すようにして目覚まし時計に手を伸ばし、アラームを止める。
そのまま下を見下ろせば、いまだ眠り続ける梁太郎。
香穂子は梁太郎の頬をつんつんとつついて、
「梁、朝だよ、起きないの?」
頬への刺激にピクリと瞼を震わせた梁太郎は、
「……ダルイから、もうちょっと寝る」
と呟いて、布団に潜り込むようにして身体を丸めた。
「え……だるいって……もしかして私の風邪が移った !? や、やだっ、どうしようっ !?」
そっと額に手を当ててみる。
ひんやりしていて、余程香穂子の方が体温が高い。
「…もしかしたら、これから熱が上がるのかな……」
香穂子はベッドの上にペタリと座り込んで、これからすべきことに考えを巡らせた。
彼女は看病されたことはあっても、誰かを看病したことがない。寝込んだ時は母が世話してくれたし、母が寝込んだ時には姉がいた。
いざ看病、と言われても、具体的に何をすればいいのか思いつかない。
とりあえず先日自分が寝込んだときに梁太郎がしてくれたことをやろう、と心に決めた。
まずはそっとベッドから降りてクロゼットから毛布を出し、丸まって眠っている梁太郎の上にかけてやり、
布団に潜り込んでしまって頭のてっぺんしか見えていない彼の姿を見下ろしながら、次にすることを考えた。
薬は先日自分が飲んだ残りがあるはずだから、彼が目覚めたら飲んでもらおう。
熱が出たら冷却シートを額に貼って。
食事は……おかゆくらいなら何とかなるかな。
それからそれから──。
不意に感じた心細さと、大切な人の看病すらろくにできない自分に対する不甲斐なさに思わず涙がこみ上げてきた。
だが、今はのん気に泣いている時ではない。
香穂子はパジャマの袖でぐいっと乱暴に涙を拭うと、手早く着替えを済ませて財布を片手に部屋を飛び出した。
* * * * *
パタン、と玄関の扉が閉まり、ガチャリと鍵のかかる音がして。
慌しく動き回っていた人間がいなくなったことで、部屋の中は一気に静まり返る。
「── あちぃ」
布団を蹴脱ぎながらベッドの上に大の字になった梁太郎は、そのまま新しい空気を取り込むように深呼吸し、うーん、とベッドいっぱいに手足を伸ばして背伸びをした。
彼は決して風邪などひいていない。完全な健康体である。
では何故体調の悪い振りをしたのか?
それは先日ついうっかり愚痴を漏らしてしまった相手のひとことがきっかけである。
『君が病気にでもなれば、彼女にも君の気持ちが理解できるんじゃないのか?』、と。
寝込んで以来、彼女はわがまま且つ反抗的な態度を見せるようになった。
単に甘えてくれるのなら大歓迎なのだが、このわがままだけはどうにもいただけない。
どうやら彼女の行動に何かと口を挟んでしまう梁太郎の一言一言がお気に召さないらしい。返って頑なに押し通そうとする香穂子と派手な言い争いになってしまう。
すべては彼女の身体のことを気遣ってのことだというのに。
── 俺がどれだけお前のことを心配しているのか、とくと思い知るがいい!
そんな訳で、 『目には目を』 ── 『病気には病気を』 ということで、仮病作戦を発動したのである。
恐らく香穂子は何か買い出しに行ったのだろう。
今のうちに、と梁太郎はベッドから這い出してキッチンで冷たい水を喉に流し込み、朝食用に買っておいたクロワッサンをひとつ摘む。
それから、リビングに置きっぱなしのカバンの中から学校の図書館で借りてきたオーケストレーションの書籍と独和辞典を取り出しベッドに戻り、うつ伏せに寝転んでページをめくった。
しばらくすると、カチャリ、と遠慮がちに鍵を回す音が聞こえた。
梁太郎は慌ててめくれ上がっていた布団を被り、2冊の本を布団の中に突っ込んだ。
布団から半分頭を出して耳をそばだてると、ガサガサと耳障りなビニールの音に混じる、ゴトンと硬い音。
それから冷蔵庫を開け閉めする音、水を流して手を洗う音の後、パタパタと控えめな小さな足音が近づいてきた。
息を潜めていると不意に額に触れるひんやりした手。
が、すぐに離れていく。
薄目を開けて見てみると、香穂子が難しい顔をして自分の額に手を当てていた。
熱がある、と思ったのだろうが、手を洗ったばかりで自分の手が冷たくなっていたことに気付いたのだろう。小さく安堵の息を漏らす。
彼女のそそっかしさに思わず笑い出しそうになるのを必死に堪え。
香穂子は梁太郎の傍を離れ、リビングに戻っていった。防音の効いた扉が閉められると、寝室は世界から切り離されたかのように静かになった。
── ふぅ。
梁太郎は布団をめくると、枕の上で更に自分の両手を枕にして天井を見つめる。
病気でもないのにこうやって寝転がっているのはなんと退屈なのだろう、と思わず苦笑が浮かんでいた。
いつしか眠ってしまったのか、気がつくと時計の針は1時前を差していた。
「……腹減った…」
小さなクロワッサン1つ程度で昼過ぎまで腹が持つわけもなく。
香穂子に対する 『報復』 もそろそろ終わりにしてやろう、と梁太郎はベッドを降りた。
リビングへの扉を開けるとふわりと鼻をくすぐるコンソメのいい香り。さらに少し甘い香りが混じっている。
と、キッチンに立っていた香穂子が振り返り、慌ててこちらに駆け寄ってきた。
「起きて大丈夫なの !?」
「ん? ああ。……いい匂いだな、何作ったんだ?」
「ミルクがゆと野菜スープ。マリアにレシピ教えてもらってきたの」
朝、部屋を飛び出した彼女は、アパートの1階に住む管理人に助けを求めに行ったらしい。
「へぇ」
「……食べる?」
「ああ、食う」
ダイニングの椅子に腰を降ろした梁太郎の前に湯気を立てる皿が並べられ。
スプーンを手渡してくれた香穂子は、彼の横から動かなかった。手料理の反応を間近で確認したいのだろう。
スープをひと口すする。
「あ……ウマイ」
素直に呟いていた。
キャベツやニンジン、セロリなど具だくさんの野菜から出た旨味にベーコンのコクが何とも言えずいい味を出している。塩加減も絶妙だ。
「ほんと !? ね、おかゆも食べてみて?」
ミルクがゆなんて初めてだが、思ったほど生臭くもなく、隠し味のチーズがほんのり効いていて、確かに病気の時にはいいかもしれない、と感心していた。
結局、空腹だったこともあり、おかゆもスープもぺろりと平らげてしまっていた。
「おかわりあるけど、食べる?」
「おう」
これだけ手厚く世話をされると、結構クセになってわがままのひとつも言いたくなってくるかもしれないな、なんて思いつつ。
と、視界の端に何かがキラリと光って落ちていくのが見えた。
見上げれば、香穂子が唇を噛み締め、ぽろぽろと涙を零していた。光って落ちていったのは、彼女の涙の雫だったのだ。
「お、おいっ !?」
「……よかった、よかったよぉ、梁が元気になって…っ」
泣かせてやろうと思って仮病を使った訳じゃないのに。
梁太郎の心の中に一気に罪悪感が広がっていく。
思わず立ち上がって、顔を両手で覆って泣き続ける彼女を抱きしめた。
「わ、悪い、心配させたよな。もう大丈夫だから泣くなよ。な?」
子供をあやすように背中をぽんぽんと叩いてやり。
「── 俺だって、お前が寝込んだ時は心配したんだぜ? 治ったっていってもお前みたいに無茶してたらぶり返すかもしれない。だからいろいろ口うるさかったかもしれないが
── 俺の気持ちもわかってくれよ」
こくこくと何度も頷いて顔を上げた香穂子の涙をパジャマの袖でゴシゴシと拭いてやる。
ぽん、と頭に手を乗せ、
「んじゃ、おかわり頼むな」
「うん!」
腰に回していた手を放してやると、香穂子は嬉しそうに皿を下げ、スープの鍋へと向かっていった。
これで彼女のわがままも治まるだろう。
作戦成功、と梁太郎は心の中でガッツポーズを決めるのだった。
* * * * *
週明け。
学校のカフェテリアの一席で、気の毒なほどの暗いオーラを放ちつつ頭を抱えている男がひとり。
見つけてしまった以上スルーすることもできず、月森は食事を載せたトレイを彼の向かいの席へ静かに置いて腰を降ろした。
「……また喧嘩か?」
ちらりと鋭い視線を送ってきた梁太郎は、はぁー、と深い溜息を吐いて事の顛末を話し始めた。
実は、仮病作戦には続きがあった。
作戦成功に浮かれていた梁太郎はその後、本当に美味しかった香穂子の作ったスープを絶賛したのだが、その時についポロリと漏らしてしまったのだ。
「これならほんとに俺が寝込んでも大丈夫だな」
「 『ほんとに』 …?」
「あ」
「もしかして、風邪って…ウソ…?」
「い、いや、そ、それはだな…っ」
「私を騙したのね…?」
「いや、決してそういうつもりは──」
「……梁なんて、だいっきらいっ!」
そんなわけで、それ以来一言も口をきいてもらえないらしい。
「……お前のせいだからな、月森。お前が妙な入れ知恵なんてするから──」
「失礼なことを言わないでくれないか。俺は 『君が病気にでもなれば』 とは言ったが 『仮病を使え』 とは一言も言っていない」
「なっ !?」
「それに仮病を使うことを決めたのは君だろう?」
「うっ…」
「そして、それをあっさり暴露してしまったのも君自身だ。違うか?」
「くっ」
「自業自得、だな」
「……そこまで言うか…」
正論で攻められてぐうの音も出なくなってしまった梁太郎は、ずるずるとテーブルに突っ伏してしまい、しばらく立ち直ることができなかった。
〜おしまい〜
【プチあとがき】
デビル月森の土浦いぢり(笑)
人とのコミュニケーションができるようになった月森さんは、
土浦いじって遊ぶのが趣味になったっていう設定で(嘘)
【2008/06/16 up/2008/06/26 拍手お礼より移動】