■お大事に 土浦

 授業が終わり、隣の席にいたルークとしゃべりながら帰り支度を始めた梁太郎のシャツの胸ポケット中で、携帯が静かに震え始めた。
 取り出して見たディスプレイに表示されているのは『Kahoko』の文字。
 梁太郎は気遣わしげにほんの少し眉をひそめ、電話に出た。
「大丈夫か?」
 前置きもなしに口にした日本語に返って来たのは『授業終わった?』というドイツ語。声の主は──
「あ……ジニー…か?」
 出てきた名前に傍にいたルークが目を輝かせた。梁太郎は思わず苦笑するも、今はそんな場合じゃない、と電話の相手に意識を戻す。
「そうか── いや、朝、薬は飲ませたんだがな── 悪いな、すぐ行く」
 通話を切って畳んだ携帯をポケットに落とし、荷物を手早くまとめる。
「ど、どこ行くんだよ !?」
 がしっと梁太郎の袖を掴んだルークが必死の形相で訊いてきた。
 梁太郎の友人であるルークは、とあるきっかけで香穂子の友人のヴァージニア(通称:ジニー)と『おつきあい』を始めたのだが、たった今電話をしてきた相手がそのジニーであり、 梁太郎がそこへ向かうとなれば、新米カレシのルークとしては黙って行かせるわけにはいかないのも当然である。
「医務室だよ」
 カバンを小脇に抱え、いまだ腕にしがみついているルークを引きずるようにして教室を出る。
「け、怪我でもしたのか !?」
「いや、朝から体調悪くてな。たぶん風邪だと思うんだが」
「な、なんでリョウがそんなこと知ってんだ !?」
「なんでって──」
 さっきからどこか会話がしっくりこないような気はしていたが。ルークの勘違いにまたもや苦笑して、
「あのな、調子悪いのは香穂だよ。ジニーは医務室で付き添ってくれてるだけだ。妙な心配すんな」
「ぅえっ !? あ、あー、あはははっ、そ、そうか、そうだよな……よかった……って、よくないじゃんっ! カホコ大丈夫なのか?」
 『よかった』のは疑ってしまった梁太郎とヴァージニアとの関係が誤解だとわかったためか、体調を崩したのが彼女ではなかったためか。 どちらにしても最終的には香穂子のことを心配してくれている。やっぱりこいつはいいヤツだ、と梁太郎はなんだか嬉しくなった。
「ああ、頭痛と微熱くらいだし、今日は絶対休めない授業があるからって出てきたんだが……一応メシはちゃんと食えるから、ゆっくり休めばすぐに治るだろ」

 話しているうちに辿り着いた医務室の中では、熱のせいで赤く染まった顔に辛そうな表情を浮かべ、額に濡れタオルを乗せた香穂子がベッドで眠っていた。
「迷惑かけたな、ジニー」
「ううん、気にしないで」
 ベッドサイドの椅子に座っていたヴァージニアは、その場所を梁太郎に譲るべく椅子から立ち上がって後ろへ下がる。 入れ替わりにその場所に立った梁太郎はそっと香穂子の頬に手を当てた。
「少し熱が上がったみたいだな……」
 呟いたその時、香穂子が、ん、と小さく唸って一瞬顔を歪めた。
 香穂子は頬に当てられた梁太郎の手の冷たさが心地よかったのか、甘えるようにその手に頬を摺り寄せ、ゆっくりと目を開ける。
「香穂、大丈夫か?」
「ん……だいじょぶ……」
 聞こえてきたのは蚊の鳴くような弱々しい声。全く大丈夫そうには聞こえないが、『大丈夫か』と問われたら『大丈夫』と答えるのが香穂子である。 聞き方を間違えた、と梁太郎は苦笑する。
「バーカ、んな時にまで強がるなよ。さっさとウチ帰って休もうな?」
「……ん…」
 香穂子の身体にかかっていた毛布をめくり、背中に手を添えて起こしてやってベッドに座らせてから荷物の上に置かれていた上着を着せてやる。 それから梁太郎は着ていたジャケットを脱いで、仕上げとばかりに香穂子を包み込んで袖を通させた。
 そして、香穂子を背負って立ち上がった梁太郎は、呆けたような2つの視線に気づいてたじろいだ。もちろんルークとヴァージニアである。ふたりとも僅かに頬が赤い。
「……どうした?」
「え…、あっ、な、なんでもないなんでもないっ」
 梁太郎の声に我に返ったのか、ぱたぱたと手を振って慌てて動き出すふたり。
「あ、あたし、カホコのヴァイオリン持って行くわね。その状態じゃ持てないでしょ?」
「あーっ、オレも行くっ! つか、ジニーは自分のヴァイオリンがあるだろ? オレ、どうせあいつらと同じ駅だし、オレが持つ!」
「じゃあ、あたしは行く必要ないわね。荷物持ちよろしく、ルーク」
「えーっ、そんなこと言うなよぉ。一緒に行こうぜ? 帰り、ウチに寄ってけよ」
「そ、そう…? じゃあ……行こうかしら」
「………おい」
「「え?」」
 梁太郎の一声でふたりだけの世界から戻ってきたルークたち。ふたりとも溶けたアイスクリームのようなデレデレな顔をしている。
「お前らって、もしかして──」
 本当に付き合ってたのか?、と訊こうとしたが、口に出すのをやめた。見れば明らかだ。
「── いや……早く帰って、こいつを休ませたいんだがな」
「あーごめんごめん!」
 二人分の荷物を分け合って運んでくれる彼らの後ろを歩きながら、釈然としない思いを抱きつつ、 やはり自分は恋愛に関して相当鈍いのだろうかと不必要なショックを受けている梁太郎であった。

 アパートに戻ると、梁太郎はすぐに香穂子をパジャマに着替えさせ、ベッドに寝かせた。
 リビングの棚から救急箱を取ってきて、額に冷却シートを貼ってやり、体温計で熱を計る。
 38度2分。
 朝は37度台だったから、やはり熱が上がっていた。
 起こして薬を飲ませるより、汗をかかせたほうがいいだろう。
 クロゼットから毛布を出して布団の上に重ねてやった。
 顔を覗き込むと、帰ってきた安心感からか、辛そうだった表情は幾分和らいでいた。
 頬と頭をそっと撫で、早くよくなれよ、と小さな声をかけてからリビングへと戻った。
「とりあえず、これでよし、と─── あ」
 寝室の扉を静かに閉めて振り返った梁太郎の目に入ったのは、ルークとヴァージニアの姿。香穂子の世話に必死になっていたせいで、ふたりの存在をすっかり忘れていた。
「あー悪い……荷物、サンキュな。礼代わりにコーヒーでも飲んでけよ」
「やった! 『リョウの淹れたコーヒーはすごくおいしい』ってカホコがいつも自慢するから、一度飲んでみたかったのよね〜♪」
 この部屋に来たのは2回目だというのに、ヴァージニアはすっかり寛いでいて、ルークを引っ張っていきソファを占領する。
 梁太郎は照れ隠しの苦笑を浮かべ、コーヒーメーカーのセットを始めた。
 トレイにカップを3つとスプーンを2本、シュガーポットとミルクのポーションを乗せておく。
 それから、今のうちに、と米を研いで水に浸しておいた。香穂子に食べさせるおかゆの準備である。
 そういえば、と帰りに買ってきたペットボトルのスポーツドリンクをカバンから出してキッチンに出しておいた。
 手を動かしながら3人で他愛ない話をしている間にリビングには香ばしい香りが漂い、ドリップ終了のアラームが鳴った。
 カップにコーヒーを注ぎ、ソファの前のローテーブルに運び、床に腰を下ろして自分のカップを口に運ぶ。
 いつもと味が少し違うような気がした。
 いつもは2人分しか淹れないし、一緒に飲む相手が違うからだろうか。
「んー、おいしい! カホコの言う通りね!」
「おー、マジでウマイ!」
 ふたりはそう言ってくれたが、梁太郎にはいつもほど美味しいとは感じられなかった。

 キィ、と小さな軋みと共に寝室の扉が開き、パステルピンクのパジャマ姿の香穂子がよろよろと出てきた。
「おい、どうした !?」
 梁太郎はカップを置いて、慌てて彼女に駆け寄り、身体を支えてやる。
「ん……トイレ…」
「気分悪いのか?」
 心配そうに訊く梁太郎に、香穂子は小さく首を横に振る。
 ほっと小さく溜息を漏らし、梁太郎はバスルームの扉を開けて香穂子を中に入れてやった。
 香穂子がトイレに入っている間に、彼はキッチンに出しっぱなしにしてあったスポーツドリンクをグラスに注いで、扉の前で待ち構えた。
 しばらくして扉から出てきた香穂子の腰を抱えるようにして支え、
「これ飲んどけ」
 とグラスを口元に持っていく。
 香穂子は彼の手ごと両手でグラスを包むと、素直にゆっくりと中身を飲み干した。
「……ぬるい…」
「文句言うな。これくらいの方が身体に負担にならないんだよ」
「……ん…」
 近くの棚にグラスを置いて、香穂子を寝室へ連れて行く。
 眠っていたのは大して長い時間ではなかったが、結構汗をかいたらしく、身体を支えた時にパジャマが少し湿っていた。着替えのパジャマを、とリビングに戻ったところで、
「カホコは幸せね〜♥」
 ニヤニヤと意味ありげな笑みを浮かべているヴァージニア。
「はぁ !?」
「あーんなに大事にしてもらえて♥」
 かぁっと顔が赤くなる。今の梁太郎は、香穂子よりも熱が高くなっているかもしれない。
「い、一緒に住んでるんだから、弱ってる時は面倒見て当然だろうがっ」
「そう? でもなかなかできることじゃないわよ?」
「ジニーが風邪引いたら、オレが面倒見るぞーっ!」
「あーはいはい、その時は頼むわね。さ、邪魔者は退散しましょ、ルーク」
 慌てて割り込んできたルークを適当にあしらって、ヴァージニアは席を立つ。
「コーヒーごちそうさま。カホコに『お大事に』って伝えといて〜」
「うわっ、ジニー! 待ってくれよ! じゃあな、リョウ!」
 パタン、と玄関の扉が閉まり、急に静寂が訪れる。
「……なんなんだよ…」
 首を傾げ、ひとりごちる梁太郎。
 今のヴァージニアの行動が、かいがいしく香穂子の世話をする梁太郎から溢れる愛情を感じ取ってのうらやましさとすっかり当てられてしまったことへの照れ隠しだった、 なんてことは、彼は知る由もないのだった。

〜おしまい〜

【プチあとがき】
 あたしも寝込むから世話してくれ、梁太郎っ!(笑)
 ちょっとヘタレだな、ルーク(笑)

【2008/06/03 up/2008/06/10 拍手お礼より移動】