■カミングアウト
「ふぅ……」
背後から聞こえてくる溜息に、キッチンに立って今日の夕食の豚のしょうが焼きの下ごしらえをしていた梁太郎は、またか、と心の中でひとりごちた。
買い物から帰ってからずっとこの調子だ。
ちらりと振り返ると、溜息の主である香穂子はソファにずしりと身体を預け、クッションを抱き込んでいる。視線は虚ろで、焦点もあっていないようだ。
「香穂?」
反応はない。
梁太郎はおろしたしょうがのついた手を水道の水で洗い流すと、タオルで水気を拭き取り、キッチンを離れた。
わざと香穂子の前を横切り、ドサリと身体を投げ出すようにソファに腰を下ろす。
「あ……」
振動でやっと我に返った香穂子が、クッションで口元を隠すようにして切なそうな目で梁太郎を見た。
「どうしたんだ? 身体の調子でも悪いのか?」
「う、ううん、そんなことない」
「じゃあ、何か悩んでんのか?」
「な、悩みっていうか……その……」
言いよどんで俯いてしまった香穂子。
梁太郎は小さな溜息を吐くと、彼女の方へ少し身体をずらし、後ろに回した腕で彼女の身体を引き寄せた。
肩口に触れる彼女の柔らかな頬。
彼は大切なものを抱え込むように腕に少し力を込め、彼女の頭に頬を乗せた。
「話せよ、ちゃんと聞いてやるから」
「うん……………あのね………………………」
流れる沈黙。
しかし梁太郎は彼女の次の言葉を急かすことなく辛抱強く待った。
「あの、ね……私、梁に……内緒にしてたことがあるの……」
ドキリ。
身体に直接響いてくる彼女の声が、胸に突き刺さる。
一瞬、身体が強張った。
彼女はこれから一体何をカミングアウトしようというのか。
まさか、もう一緒に暮らすのは嫌だ、とか言い出すのではないか。ネガティブな思考が頭を渦巻く。
彼女の身体を強く抱きしめることで、自分の身体が震え出すのを必死に堪え、
「へぇ……言ってみろよ」
極力平静を装ったつもりだったが、残念ながらほんの少し声が震えた。
と、香穂子が梁太郎の胸に手をつき、ぐっと力を込めて身体を離す。そのまま彼のシャツの胸元をぎゅっと掴み、見つめる大きな瞳が潤んで、揺れた。
「私……」
彼女の真剣な眼差しから逃げたかった。
だが、梁太郎は目を逸らさない。彼女の選択ならば、それをきちんと受け止めよう。そう覚悟した。
「………私、しょうが焼きは甘いほうが好きなの」
静かに紡がれた彼女の言葉に、梁太郎は完全にフリーズした。
「……………は?」
「だから、私は甘いしょうが焼きのほうが好きなの!」
「………んなことで溜息吐きまくってたのか…?」
こくり、と香穂子が遠慮がちに頷く。
一気に脱力した身体を支えられなくなって、梁太郎はずるずるとソファに沈み込んでしまった。
「辛いしょうが焼きが嫌いなわけじゃないんだよ、梁の作るご飯は何でもおいしいし、むしろ好きっていうか。でもうちのお母さんが作るしょうが焼きは甘いやつだったから、
たまにはそっちも食べたいなーなんて思ったりして!」
梁太郎の機嫌を損ねてしまったと思ったのか、香穂子は早口で一気に言い募る。
「……そういうことは早く言えよ、お前らしくもない」
「だって、前に甘いしょうが焼きをリクエストしたお姉さんのこと愚痴ってたでしょ。だから言い出せなくて……」
「他に隠してることは?」
「ない!」
小気味よい即答がやけに嬉しい。
まだ胸元に置かれていた香穂子の手首を掴み、引っ張り上げるようにしてソファから立ち上がった。
「きゃっ! ……ご、ごめんね、梁……お、怒った…?」
「バーカ、んな程度のことで怒るわけないだろ。今からタレ作るから、お前、味見係な」
「いいの…?」
「その代わり、しょうが焼きの時は甘いのと辛いの、1回おきな」
キッチンに向かって香穂子を引きずりながら、肩越しに振り返ってニヤリと笑う。
みるみる輝くような笑みを浮かべた香穂子から、うん!、と嬉しそうで元気な返事が返ってきた。
〜おしまい〜
【プチあとがき】
2の昼休みイベントより。
このふたりにはやっぱり食べ物ネタが似合います(笑)
【2008/05/02 up/2008/05/08 拍手お礼より移動】