■とばっちり 土浦

 小さなアパートの一室。
 月森 蓮はヴァイオリンを弾く手を止め、ふと壁の時計へと目をやった。
 2本の針が示しているのは、もう深夜と呼べる時間。
 ふぅ、と息を吐き、窓の外を見ると、モノクロの街並みが街灯の柔らかな灯りで浮かび上がっている。
 午後から降り始めた雪は街を白く染め、いつの間にかやんでいたらしい。
 簡単な夕食を済ませてからずっと弾き続けていたのだから、もうかれこれ5時間は弾いていただろうか。
 そう考えた途端に感じる軽い疲れ。
 今日のところは入浴を済ませて寝てしまおう、とヴァイオリンを片付ける。

 ピンポーン

 突然鳴ったドアチャイムに、月森は眉をひそめる。
 こんな時間に一体誰だ?

 ピンポーン

 真夜中に他人の家を訪ねるとは、なんと常識のない人間だろう。
 居留守を決め込もうと思った瞬間。

 ピポピポピポピポピポピポピポーン

 非常識この上ないチャイムの連打。
 なんとなくチャイムの主に思い当たって、苦笑を浮かべ扉を開ける。
「あーよかった、いないかと思っちゃった。うー、寒っ。ごめん、ちょっとぬくもらせてくれない?」
 早口でまくし立てるのは、予想通りの人物。
「……こんな時間にどうしたんだ、日野?」
「ん、ちょっとねー」
 月森が身体を引いてスペースを開けてやると扉の中にするりと入り込み、踏みしめた雪でぐしょぐしょに濡れたキルトのルームシューズと靴下を脱いで、 裸足のままひたひたと部屋の中へ上がりこんだ。
「ごめん、洗面所借りるね」
 勝手知ったる他人の家、何度かこの部屋を訪れたことのある香穂子は月森の承諾の返事を待つことなくバスルームへ入っていくと、洗面台で靴下とルームシューズをざっと洗って固く絞り、 形を整えてヒーターの送風口の前に並べた。
 その間に月森はクロゼットからタオルと新品の靴下、予備のルームシューズを出して、ヒーターの前に座り込んで暖かい風で冷え切った足を温めている香穂子に差し出した。
「あ、ありがと。靴下、洗って返すね」
「いや、そのまま使ってくれていい」
「やだな、私、水虫とか持ってないよ?」
「そういうことを気にしているわけではないが」
「男物なんて、私は履かないし」
「君が履かなくても、他にいるだろう?」
 彼女はちらりと恨めしそうな目で月森を見上げ、何かを言いかけて開いた口をぐっと引き絞り、抱えた両膝に顔を埋めた。
 どうやら彼女は同居人の男と喧嘩でもして、衝動的に自宅を飛び出してきたらしい。
 びしょ濡れのルームシューズはもちろん、ジーンズにラフなシャツ、カーディガンを羽織っただけの姿はどう見ても真冬の外出のための格好ではない。
 月森はすっかり口を閉ざしてしまった香穂子に小さな溜息を零すと、彼女をそのままにして小さなキッチンへ向かった。
 作りつけの小さな食器棚からマグカップを取り出し、冷蔵庫から出したミルクを注ぐ。ティースプーンに半分ほどの砂糖を落とし、電子レンジで温めて。 湯気を立てるミルクをスプーンでひと混ぜ、ちょっと考えてから棚の小瓶を取り出す。以前この部屋に集まった時の名残のブランデーをカップの中に数滴落としてから、 ソファの前のローテーブルの上に静かに置いた。
「わ、ありがと♪」
 踵の余った靴下を履いた足にルームシューズをつっかけた香穂子が、よいしょ、とソファに腰を下ろしてマグを手に取る。 ひと口すすり、はふぅ、と幸せそうな息を吐いて、おいしい、と呟いた。
「何があったんだ?」
 ソファから離れた窓の側に背を凭れ、彼女に尋ねる。
 窓からは外の空気がガラスを通して染み出してきたような冷たさがひんやりと肌を刺した。
「べっつにー」
 彼女はまたも答えをはぐらかす。視線を逸らし、ソファに深く背を埋めてもうひと口ミルクをすする。
「……マリアのとこでお茶しようと思ったら、彼女、今日は息子さんのとこに遊びに行っちゃってていなかったんだよね。だから、月森くんにお茶ご馳走になろうと思って」
「こんな時間にか?」
「そうよ、そういう気分だったんだもん」
「……そうか」
 香穂子はあっけなく引き下がった月森の顔を意外そうなきょとんとした目で見つめる。もっと追求されることを予想していたのだろう。
 しかし、月森の口調に呆れたような苦笑が混じっていたのに気づいて、彼女は唇を尖らせてぷいっと顔をそむけた。

 ピンポーン

 突然響くドアチャイム。
 誰が来たのかはすぐにわかった。
 香穂子も察知したのだろう。彼女は慌ててカップを置くと、ヒーターの前の靴下とルームシューズを引っ掴み、 『来てないって言って!』と小声で鋭く言ってからバスルームの扉の向こうに姿を消した。
 もう一度、ドアチャイムが鳴る。
 月森は勉強机の上のメモ用紙に二言ばかり書き留めると、それを手に玄関に向かった。
 扉を開けると予想通り、血相を変えた土浦梁太郎の姿があった。大きな紙袋を提げている。
「悪い、こんな時間に……あいつ、来てないか?」
 彼の言う『あいつ』とは、今まさにバスルームに立てこもっている彼女の他にいない。彼の同居人、香穂子のことである。
 月森は苦笑を浮かべた口元に人差し指を当て、土浦に向かって指先に挟んだメモを掲げる。そこには『ここにいる、話を合わせろ』とだけ書かれていた。
 明らかにほっとした表情を浮かべる土浦。
「……いや、ここには来ていないが。日野がどうかしたのか?」
「あー、ちょっと口論になっちまってな。部屋を飛び出して行きやがった」
「そうか」
 土浦の持つ紙袋の中に無造作に入れられた女物のコートが見えた。よほど慌てていたのだろう、そこらにあったものを適当に袋に突っこんだという感じだ。 月森は土浦の手から紙袋を静かに奪い取り、バスルームの扉に張り付いて聞き耳を立てているであろう彼女に聞こえないようにそっと下ろす。
「他に彼女が行きそうな場所に心当たりは?」
「いや、あいつが学校で一番仲がいいヤツの家は地下鉄で3駅ばかり離れてるしな。うちのアパートの管理人は留守だし、ここかせいぜい王崎先輩のとこだと思ったんだが」
「……わかった── もし彼女から連絡があったら、すぐに知らせる」
 指先をちょいちょいと動かして土浦を中に招き入れて。
「頼む── 悪かったな、こんな遅くに」
「いや、かまわない」
 月森は土浦の背後でわざと大きな音を立てて扉を閉めた。
 土浦を先導して部屋に入り、ひとつの扉を指差して。
 扉を開けた時に中から出てきた人間からは死角になる位置に土浦が立ったのを確認してから、月森は扉をノックした。
「日野、もう出てきていいぞ」
 そう言うと、月森は窓際へ行き、壁に凭れる。
 カチャリ。
 香穂子は開いた扉から頭を出し、キョロキョロと部屋の中を警戒してからバスルームから出てきた。
「ふぃ〜、助かったよ、月森く──っ !?」
 引きつったように喉を鳴らして言葉を飲み込む香穂子。扉の後ろから腕を掴まれ、驚きに目を丸くして固まっている。
「ちょ、な……なんでっ? だ、騙したわね、月森くんっ!」
「帰るぞ」
 苦笑を浮かべる月森を睨みつける香穂子を玄関の方へ引きずっていく土浦。置いてあった紙袋の中から出したコートを彼女の頭からバサリと被せると、 紙袋の底から取り出したビニール袋の中のブーツを床に置く。そのビニールの中に彼女の手から抜き取った湿ったルームシューズと靴下を入れ、 それを落とし込んだ紙袋を小さくまとめて小脇に抱えた。
「迷惑かけたな、月森」
「いや」
 窓の側の壁に背を預けたまま答えて。
 しぶしぶコートに袖を通し、ブーツに履き替えた香穂子の腕を改めて掴み直すと、土浦は彼女を部屋から引っ張り出した。
 バタン、と扉が締まる。
 慌しく過ぎ去った嵐に、月森は深い溜息を吐いた。

 ふと、何気なく窓の下を見下ろすと、たった今この部屋を出て行ったふたりがアパートの前の通りに姿を現した。
 彼が首にかけていただけのマフラーを抜き取り、彼女の首に巻いてやる。
 と、彼女が彼の腰に抱きつき、その胸元に顔を埋めた。
 彼は優しく彼女の頭を撫でると、耳元で何かを囁く。彼女の肩に片手を乗せて身体を離すとその手を彼女の腕に沿って滑らせ、ほっそりした指先をそっと包み込んで。
 彼は彼女の手ごとコートのポケットに手を突っ込み、ふたりは彼らの住むアパートの方へと歩き始めた。
「まったく……」
 思わず零れる溜息。
 振り返り部屋に視線を戻すと、ローテーブルの上に置かれたままのマグカップが目に入った。
 あの様子では騙されたと憤った彼女からの報復はきっとないだろう。報復どころか、次に会った時の彼女は平身低頭で詫びの言葉を口にするに違いない。
 持ち上げたマグはすっかり冷たくなっていた。
「……とんだとばっちりだな」
 今日何度目になるかわからない苦笑を浮かべた月森は、冷めたミルクをキッチンの冷たい水で洗い流した。

〜おしまい〜

【プチあとがき】
 いきなり真冬の話です(笑)
 土浦さんと香穂子さん、一体何が原因でケンカしちゃったんでしょう?
 まあ、いつもは仲のいいバカップルでもたまにはこんなこともあるさ、ってことで。
 LRの絶妙なコンビネーション、いかがでしたか?
 つか、月森さん、こんな小細工すっかなぁ?(笑)

【2008/04/26 up/2008/05/02 拍手お礼より移動】